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zoom RSS 「それぞれのシネマ Chacun son cinema」 Part 4 映画へのラブレター

<<   作成日時 : 2016/06/02 15:08   >>

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…そして迎える大団円。Everyone loves a happy ending.....ヴィム・ヴェンダース、チェン・カイコー、ケン・ローチ。


それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~ [DVD]
角川エンタテインメント
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「平和の中の戦争 War in Peace」
監督:ヴィム・ヴェンダース Wim Wenders

アフリカ、コンゴ河下流域にあるカバロ村。赤茶けた乾ききった大地は砂埃を上げ、真っ赤な太陽が容赦なく照りつける。村のあちこちにいまだ戦争の傷跡が生々しく残る中、朝から大きなカゴを頭の上に乗せて立ち働くのは専ら女たちである。ここには電気も水道も満足にないため、家族が生きるためにやらなければならないことは無数にあるのだ。その一方で村の男たちはなにをしているのかというと、ひとつきりしかないテレビの前で日がな一日ぼんやりと映画を観ている。村の真ん中に作られた急ごしらえの映画館…簡単なレンガとムシロで囲われた粗末な掘っ立て小屋、これが男たちと子供たちの唯一の居場所であった。放映される映画は、戦争ものやバイオレントなアクション映画のみ。彼らは一日中、瞬きも忘れて画面に見入っている。口を半開きにして呆けた表情の者、零れ落ちそうな大きな瞳をいっぱいに見開いている子供、今にも泣き出しそうな苦悶の表情の子供、薄ら笑いを浮かべている者…。やがて西の空に太陽が沈み、村が刷毛で掃いたような藍色に染まる頃、彼らはようやく家路につく。植民地の100年、独裁の30年、そして死者50000人を出した内戦の10年を経た末に、やっと勝ち得た平和の最初の年。生き残った人々の心の中には、いまだ戦争が続いているのだ。

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「ベルリン・天使の詩 Der Himmel uber Berlin」(1987年)でベルリンの壁崩壊という大きな歴史のうねりを、また近作「ランド・オブ・プレンティ Land of Plenty」(2004年)で9.11テロという歴史の傷を、硬質のポエジーに昇華したヴェンダース監督。初期作の「さすらい Im Lauf der Zeit」(1976年)やカンヌでパルム・ドールを獲得した「パリ、テキサス Paris, Texas」(1984年)でも、彼の作品にはいずれも“彷徨 wandering”という大きなモチーフがあった。そもそも“あてのない旅”というものは、人が大きな問題を抱えた際に解答を求める手段であると私は思う。この短編では、地理的な意味においての旅ではなく、時間の旅を経た末に得た結果がどうであったかを観客に問う作品であるだろう。元々ヴェンダース監督は、“国境なき医師団”のドキュメンタリーを撮るためにカバロ村入りした。ところが、一歩この地域に足を踏み入れてみれば、世界の流れから取り残されたかのような惨状に言葉を失ったという。そこで急遽、“カバロ村における映画館”というモチーフを通じて、戦争が人間に与える過酷な運命を世界に示したのである。語り口はポエティックとすら感じられるが、映し出されるのは紛れもなく厳粛な現実だ。暴力に中毒症状を示す男たちのための“映画館”の前で、幼児が木の枝をライフルのように構えてみせる様子を、私たちは決して忘れていけないだろう。



「チュウシン村 Zhanxiou Village」
監督:チェン・カイコー Chen Kaige

1977 年。チュウシン村の冬。納屋の中で子供達がチャップリンの活劇に大笑いしている。彼らは大人たちに内緒でスクリーンを張り、映写機を持ち出し即席映画館をこしたえたのだ。だが途中で電源が切れてしまい、映画が止まる。子供たちは慌てず騒がず、送電線につないだ自転車のペダルをこぎ始めた。ここでは電気が止まることなどしょっちゅうで、自家発電装置が常備されている。彼らは自転車をこぐ力で発電し、上映を続行する。ところがまたしてもトラブル発生。今度は電圧が上がりすぎ、映写機が煙を吹いてしまったのだ。それを見咎めた男が子供たちのイタズラを発見し、彼らを納屋から追い立てる。しかし1人の少年が、真っ暗になったスクリーンの前に呆けたように座り続けている。男は不審に感じ、少年の目の前に手をかざしてみる。無反応。どうやら目が見えなかったようだ。 2007年。1人の青年が、白い杖をつきながら真新しい映画館にやってくる。彼が広い座席の真ん中に陣取ると、真っ赤な緞帳が彼のためだけにスルスルと上がった。30年前とは違い、大きくて立派なスクリーンがその目の前に現れる。

カイコー監督といえば、私にとってはやはり「さらば、わが愛/覇王別姫 霸王别姬」 (1993年)が全て。だが実は、ハリウッドに渡って撮った官能作品「キリング・ミー・ソフトリー」も大いに気に入っている。あまり大きな声では言えないが(笑)。
本を読む際に、よく“行間を読みとる”という表現が用いられる。直接言葉で表されていないが、その前後の関係性から行間に沈んでいる真意を読み取れということだが、カイコーの作品では、その東洋人ならではの控えめな感情の露出法がとても心地良い。極力台詞で説明するのを避け、今作でも頻出する子供達がこぐ自転車の車輪の映像など、さりげない背景描写でその場の空気を連想させている。粗末なスクリーン上で展開される、チャップリンのバイタリティ溢れる笑い、自転車をこぎつつスクリーンに目を輝かせる子供たちの上気した頬…。これ以上、映画への原始的な愛を力強く謳い上げるものが他にあるだろうか。これが、父親もまた映画監督であったカイコー自身の原体験であろうことは想像に難くないが、胸を打つのはラストの1シーンだ。納屋で、目が見えないながら必死で“映画を観る振り”をしていた少年が、長じて映画館に座る姿には、厳粛な風情さえ漂う。映画の持つ普遍的な力、また、映画を愛する心はいかなる障害をも超え得るのだということを、改めて思い知らされる。



「ハッピーエンド Happy Ending」
監督:ケン・ローチ Ken Loach

街の片隅にある小さな映画館。週末になると、老若男女を問わず、ここは大勢の映画好きでごった返す。生意気盛りの息子を連れてやってきていた男も、たまには映画なんぞ観て親子の憩いの場を持とうと目論んでいた。ところがこんな日に限り、ロクな作品がかかっていない。やれ金髪美女を切り刻む話やら、車がひっくり返るだけのアクションものやら、エッチシーンしかないポルノやら。どれもこれも年頃の少年と観るには不向きだ。息子に好きな映画を選ばせてやろうとしても、これではいかんともし難い。ああでもないこうでもないと親子で議論する内、後ろに並ぶ客からは観る映画をさっさと決めろとどやされ、とうとう行列の先頭になってしまった。それでも観る映画は決まらず、受付嬢も困惑顔だ。すると、突然息子は映画なんか嫌だと叫び、親子は呆気にとられる周囲の目を振り切って外に出た。週末はやっぱりサッカーだよな!2人はサッカーボールを蹴りつつ、通りを渡っていった。

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トリを飾るのは、これまたカンヌでは常連の、そしてつい先日閉幕したばかりのカンヌ国際映画祭で2度目のパルム・ドールを獲得したばかりの英国の巨匠ケン・ローチ監督だ。社会の低層に位置する人々が日々対峙する厳しい生活状況を、同じ目線で暖かく見守る作風で知られる社会派作家である。英国内でも英国外でも、彼の描く作品には常に社会を底辺で支える人々への深い共感がみられる。その位置から世界に向けて発信される問題提起は、本当の意味で社会に根ざした意識の高さを感じさせるに充分であろう。
だが今回の短編には、いつもの生真面目さはあまり見られない。“映画館への思い入れ”という企画の趣旨からは弱冠はずれるかもしれないが、サッカー発祥の地に生まれ育った誇りのようなものを、ユーモアに絡めてさりげなく描くところは実に英国人作家らしい。親子の意識間にある微妙なズレ、下町人情のにじみ出る人間関係、飄々とした笑いとペーソス、映像の端々からなんともいえない暖かい雰囲気が漂う。
世界にはいろいろな映画があり、様々な解釈もそこに存在するわけだが、やはり映画のラストは“ハッピー”であって欲しい。人々の夢を託してこその映画なのだから。その意味では、この人を食ったような作品が最後を飾るなんて、素敵な大団円ではないのかと思うのだが。

〜エピローグ〜
若いご婦人が恋人の年上の男性と共に映画に見入っている。映画はクライマックスを迎え、愛し合う男女がようやく結ばれて“The End”となった。男性は愛しい恋人に問う。「ハッピーエンドが好きかい?」映画を愛する者は皆、やっぱりハッピーエンドが大好きなのだ。



―スクリーンは、50年代のアメリカをだめにした若者たちのナルシシズムを映し出す鏡だった。この時代、中産階級の大人たちは求める幻想の全てを、新しい郊外における家庭の炉辺であるテレビジョンに見出すようになり、その子供たちが彼らにかわって全米の映画人口になった。ハリウッドは突如として自分たちが、車を乗り回す小生意気なティーンエイジャーたちの人質になったことに気づいた。― セオドア・ローザック Theodore Roszak著「フリッカー、あるいは映画の魔 Flicker」より抜粋


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映画という虚飾の世界とミステリが高次元の融合を果たした怪著「フリッカー、あるいは映画の魔」は、映画好きならば思わず納得すること間違いなしの金言の宝庫だ。未読の方はぜひ手にとってみられることをお勧めしたいが、この作品の中に、現在の映画産業の状況を見事に言い当てている一文があったので抜粋してみた。作中では、これは、主人公が実体験した40年代から50年代の映画界についての考察となっているが、この状況は現在も変わりなくハリウッドを蝕んでいるといえる。また、世界中の映画産業もこれに追随するだろう。

しかしながら、今回この短編集を観た後の率直な感想は、“映画にはやはり未知の可能性がある”というものだった。もちろん、技術的な発展は現在、頭打ち状態かもしれないし、映画的な語法だって既に出尽くした感もある。それでも、映画に何がしかの可能性が秘められていると信じるのは、映画を観る側、つまり私たちの想像力、映画の質を判断する能力の方にこそ、より成長する余地があると思ったからだ。映画は、私たちがただボンヤリと眺めているだけではどうにもならない。私たちが映画から受ける印象なり、掘り起こされた感情なり、提起された問題なりを咀嚼し、それを吐き出すという作業が必要なのではないか。観客からのフィードバックを得れば、映画も自身を今一度見直し、進化することが可能だろうと思う。映画を生かすも殺すも観客の心構え次第。わずか3分の中に込められた様々なドラマを観ていると、つくづくそんな気がするのだ。

3分間のドラマは、作る側の創造力を要求しただろうが、同時に観る側の想像力をも駆使することを求める。説明過剰で長い映画を見慣れてしまった方にこそ、この作品を観ていただきたいと思う。




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