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zoom RSS 「それぞれのシネマ Chacun son cinema」Part3 映画へのラブレター

<<   作成日時 : 2016/06/01 23:16   >>

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ドラマを語るのに時間の長尺は関係ない。



それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~ [DVD]
角川エンタテインメント
2008-07-04

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「エロチックな映画 Cinema Erotique」
監督:ロマン・ポランスキー Roman Polanski

熟年夫婦が映画館で固唾を呑んで見守っていたのは、誰あろう「エマニュエル夫人 Emmanuelle」ことシルビア・クリステルのヌード・シーンである。彼らの間には絶えて久しいといっても過言ではない、生々しいシーンであろう。だが、後ろの方の座席に座る男が、先ほどから妖しげな呻き声をあげ続けている。まるでスクリーンのシーンと呼応するかのようなそれは、夫婦の集中力を削ぐ。たまりかねた夫が劇場の支配人に文句をつけ、迷惑な男をつまみ出すよう要請した。支配人が座席にへばりつくようにしてあえいでいる男に話しかけると、男は悲痛な声で叫んだ。「2階から落ちたんだよ!」

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ポランスキーという監督は、実に多彩なジャンルの映画を手がけることで有名だが、コミカルなタッチの作品も洒脱に仕上げる才に恵まれている。なんと50年ぶりの短編になるという今作では、「戦場のピアニスト」といったシリアス路線の作品群とはがらりと趣を変え、久しぶりにコメディに回帰した。しょっぱなからクリステルの懐かしいヌードで度肝を抜いたかと思うと、彼女の輝く肢体とそれを見つめるしょぼくれた熟年夫婦との対比で笑わせる。しかも、落語オチのようなラストまで、ストーリーの流れも見事なもの。3分間をフルに用いて、洒落っ気あるお話を紡いでくれた。



「翻訳不要 No Translation Needed」
監督:マイケル・チミノ Michael Cimino

「アモーレス・ペロス Amores Perros」が上映されているパリ市内の映画館。そこで赤いマフラーの映画監督は、キューバ人のラテン・バンドの演奏風景を撮影するのだ。彼は落ち着かない様子でバンドのメンバーを迎え入れ、何の前触れもなく演奏を始めた彼らの姿をカメラに収める。だが映像の編集中、トラブルが発生。試写では、バンドの紅一点、セクシーな女性ボーカリストが、美しく撮られている自分の姿に大興奮。しかし映像が乱れた瞬間、激昂した彼女は監督に殴りかかってしまう。

チミノ監督が映画界を離れて久しいが、今作はなんと11年ぶりの映像作品になるのだそうだ。彼はとっくにハリウッドとは縁を切っており、現在はパリ在住であるとのこと。

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これはカンヌ映画祭時の画像である。念のためお知らせするが、向かって左側の白のスーツの男性がチミノだ。昔はもっとでっぷり太っていたと記憶するが、この変貌振りはどうだろう!心身ともに余分なものがそぎ落とされ、すっかり溌剌としている印象すら受ける。だからというわけでもないだろうが、この短編では、従来のチミノの暗い味わいは影を潜めていたように感じる。パワフルなキューバ人バンドの熱気溢れる演奏を撮影する、ゴダールをパロったかのような映画監督。彼は小男で落ち着きがなく、シンガーから「あなたはミゲル(マイケル)・チミノか?」とからかわれさえする。出来上がった作品は、そのゴダール=チミノが劇中で撮影した映像に負けないぐらい混沌としているのだ。作品をシンガーからなじられる喧騒をもって終わる今作は、チミノによる自身の自虐パロディだったと思われる。



「君のために9千キロ旅してきた I Traveled 9,000 Km to Give It to You」
監督:ウォン・カーウァイ Wong Ka wai

ゴダールの映画「アルファビル Alphaville, une etrange aventure de Lemmy Caution」を上映する映画館。僕はある夏の日、ここで彼女に出会った。照明を落とされた館内で、座席の真っ赤な色がことさら濃厚に浮き出す。彼女の隣に座っていた僕に、彼女は皮を剥いたオレンジの実を差し出した。甘酸っぱく、五感を刺激するオレンジ。官能を覚まされた僕は、シルクのストッキングに包まれた彼女のカモシカのような脚を見つめ、赤いヒールをもどかしそうに履く細い足首を見た。彼女の纏うドレスの衣擦れの音。僕はこの瞬間、彼女に永遠に恋をした。知らず、僕の手は彼女のなめらかな肌を撫でる。“君のために9千キロ旅してきた”と熱っぽく語る映画の中の男。僕も、遥か彼方の宇宙から、彼女に出会うためにこの映画館にやってきたのだ。

エロティシズムの表現というのは、簡単そうで難しいものだと思う。特に、それを忌むべきもの、隠すべきものだと深層心理に根付かせる文化圏の人間にとっては。だがカーウァイの映像には、剥きだしの神経にそっと手を触れてくるようなエロスの具現化がある。閨の中の様子をあからさまにするのではなく、その周囲を巧妙になぞっていく隠微さというのか。この短編でも、薄暗い映画館の中で息を潜めてスクリーンを見つめるという行為が、あえかな情事の香りを誘っている。オレンジの香り、ドレスから除く細い脚、衣擦れの音、ストッキングに包まれた腿をなぞる手…。カーウァイの映像には毎回胸が高鳴る。スタイリッシュと評されることが多い彼だが、それだけではその魅力は語りきれないだろう。



「ロミオはどこ? Where Is My Romeo?」
監督:アッバス・キアロスタミ Abbas Kiarostami

イランの映画館。「ロミオとジュリエット Romeo and Juliet」が上映されている。座席に陣取るのは大方が女性だが、老いも若きもそれぞれだ。折りしも劇中では、ロミオとジュリエットが禁じられた愛の末にお互いの命を絶ってしまい、それを知った両家の者達が深く頭を垂れている。若い男女の悲恋に、女性たちは皆一様に涙を流している。だがその表情はそれぞれ異なる。女性たちが映画から見出すロミオ像が、それぞれ違うように。

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収録作品中、最も純粋に“映画館への想い”を映像にした作品だと思う。1つの映画から受け取る印象、感慨は十人十色であり、それは観る者の人生が皆それぞれに異なることにも起因する。映画館をぐるりと見回すだけでも、これだけの異なる人々がおり、異なる人生がその背後に広がっているのだ。それでも、映画を皆で共有するその時間は、館内には説明しがたい一体感が確かに存在する。それぞれに異なる小さな分子を内包する宇宙は子宮にも似て、映画を観る人々をそっと包み込んでくれるのだ。小さな差異に拘って差別や排斥を行うことの無為を、私たちは知るべきであろう。



「最後のデート・ショウ The Last Dating Show」
監督:ビレ・アウグスト Bille August

デンマークの小さな町に立つ小さな映画館。ここで彼は愛しい彼女を待っていた。彼女はイラン人。2人は何度か映画館デートをする仲だ。今夜も一緒に映画を観る予定だった。ところが彼女はなんとか英語は話せるものの、デンマーク語はさっぱり理解できない。それでも彼女は、今夜も彼にデンマーク語の映画を観たいと主張する。これまでにも、彼は何度もデンマーク語以外の映画にしようと提案していたのだが。今夜の映画はサスペンスタッチのスリラー映画だ。既に何度も観た作品だったが、仕方なく彼は彼女の隣で台詞を英語で説明し始める。映画も佳境に入り、いよいよ犯人が暴かれるという緊張の瞬間、前の方の席に陣取っていた3人の若い男たちが、彼ら2人にうるさいから出て行けと怒鳴る。実は、彼は彼女に映画の内容を大幅に脚色して説明をしていたのだ。彼の思惑としては、映画をサスペンスではなく、恋愛映画に仕立てて…引いては、解説にかこつけて、彼女に愛の告白をするための材料にしようとしていたのだ。イラン人である彼女を見るや、3人組は彼女に侮蔑的な言葉を吐いて愚弄する。頭にきた彼は、館主にあのナチスの残党3人を追い出せと迫る。館主の計らいで3人組は追い出されたが、彼女はなおも映画を最後まで見届けたいと粘る。彼が少し目を離した隙に、3人組はまたぞろ映画館に舞い戻り、フロントにいた彼女と鉢合わせする格好に。彼女は近づいてくる3人組を見ると、恐怖で足がすくむ。

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彼は彼女が姿を消したと知ると慌てて館内を探したが、そのとき館主に呼びとめられ、映写室に向かった。そこには意外な光景があった。例の3人組と彼女が、狭い映写室で顔を突き合わせるようにして、映画のクライマックスに見入っていたのだ。しかも3人組は、正しい内容を彼女に解説している。彼女は呆然とする彼に向かって苦笑いを寄こした。「どう考えてもあの男が女と結婚するようには見えないわ」

「ペレ Pelle erobreren」「愛の風景 Den goda viljan」で、2度パルムドールを獲得したアウグスト監督。デンマークの巨匠であるが、彼の作品が日本で公開されることが少ないのは、残念な限りだ。ハリウッド俳優を起用するようになった最近作に、「マンデラの名もなき看守 Goodbye Bafana」(2007年)や「リスボンに誘われて Night Train to Lisbon」(2013年)等がある。今作は、これまで一貫して人間性の追及、さらには人間の奥底に眠る善性を訴えてきたアウグストらしい短編であるといえよう。言葉もろくに通じないデンマーク人の青年とイラン人の女性の交際をモチーフに、人種や文化の違いを乗り越えることの難しさ、しかしその困難の果てには必ず希望があることを、さりげないユーモアも交え、見事3分間の中に凝縮してみせている。間違いなく、今企画中最も完成度の高い作品だろう。3分間の中に、監督が伝えたい主題、起承転結のはっきりしたストーリー展開の妙、台詞の妙、俳優陣の演技の絶妙なる間合いの面白さなど、映画の楽しさが満ち満ちている。ラストは、決して説教臭くならない暖かさをも感じさせて秀逸。1本の長編を観終わった後のような満足感が残る。



「臆病 Irtebak」
監督:エリア・スレイマン Elia Suleiman

スレイマン監督は、とある映画館で新作の上映を行っていた。上映後には、観客とのトークセッションが予定されている。だが、奇抜な持ち味のスレイマンの作品は、なかなか一般の観客には受け入れられない。スクリーンでは、上映中に移動する観客を目で追う劇中人物がいたり、ストーリーの流れに関係なく突如銃撃戦が始まったり、シュールな世界が広がっていた。観客の醒めた反応を映写室から見ていたスレイマンはいたたまれず、トイレに逃げ込む。挙動不審を双子のいかついマッチョ・マンに睨まれて、さらに個室に追い込まれるスレイマン。便器に投げ込まれた彼の携帯が、上映の終りを知らせていた。スクリーンが上げられ、壇上でスレイマンが挨拶をしても、観客は無反応。駐車場での車のトラブルが客席にアナウンスされると、皆我先に外に飛び出していってしまった。

“監督は辛いよ”…一言で本作を語るならば、これに尽きるだろう(笑)。監督は映画製作の現場において全てを統括する絶対権力者でありながら、その実、プロデューサーや製作会社、最終的には不特定多数の観客の哀れな奴隷なのである。
スレイマン監督の作品はほぼ未見といってもいいので、私には彼の作品を総合的に評価することは出来ないが、これを見る限り、かなりシュールな作風の監督ではなかろうかと感じる。真面目にストーリーをトレースしていたかと思えば、突如奇天烈な映像が飛び出したり…。今作では、主人公の“臆病な”映画監督を自身で演じているが、バスター・キートンのような無表情、チャップリンのようなパントマイム的可笑しさで、えもいわれぬ存在感を示す(実際、彼は劇中で一言も発していない)。俳優としても個性的であるようだ。緊張感と腰砕けのごときオチ、その緩急もなかなか。イスラエル国籍のパレスチナ人であり、ニューヨークに10年間留学した経験を持つというバックグラウンドが、今後どのような作品に昇華されるのか、楽しみにしたいと思う。



「唯一の出会い Rencontre unique」
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ Manoel de Oliveira

とある古ぼけた映画館。ここでは、“フルシチョフと法王ヨハネ23世の唯一の出会い”と題されたサイレント映画が上映されている…。
フルシチョフがとあるパーティー会場で、法王ヨハネ23世を見かける。フルシチョフの秘書は、法王を我らの同志だとフルシチョフに説明する。フルシチョフは、なぜカトリックの長が自分たちと同じ志を持つのかさっぱりわからない。秘書は取り澄まして答える。我ら同志スターリン同様、法王もまたカトリック信者を意のままに操ることができるのだ、と。そうこうするうち、法王がフルシチョフの元へ近づいてきた。慌てたフルシチョフは、法王が顔の前で十字を切るのに反応し、思わずナチスの敬礼のポーズをとってしまう。仕方なく秘書もナチスの敬礼で法王を迎える。法王は、そんな彼らを見ても慌てず騒がずこう言い放つ。「結局のところ、私たちの間には共通するものがあるということですな、親愛なるフルシチョフ」

現役監督として世界最高齢の記録を保持していた、オリヴェイラ監督。残念ながら彼は、2015年4月2日に満106歳で逝去してしまったが、映画作家として誰よりも長きにわたりマイペースに活動を続けてきた人であった。当初は俳優を志していたそうだが、1931年の「ドウロ河 Douro, Faina Fluvial」、約10年後の1942年の「アニキ・ボボ Aniki Bobo」で監督としてデビュー。上記2作品の興行的失敗から長年メガホンを取り上げられていたが、90年代、なんと老齢に達してから突如映画作家として復活した。その後は、年に1本というハイペースで新作を発表し続けている超人である。彼の作品には、長い人生の間に培われたタフネスと、挫折すらものともしないユーモア、楽天的思考の陰に見え隠れする人間性への鋭い考察力がにじみ出る。扱うテーマ、ジャンルは多岐に渡る職人監督だが、どの作品にも人間の本質に触れる試みがなされているのが特徴だといえよう。この短編でも、共産主義とカトリックの邂逅という挑発的なテーマに、ごく挑発的な解答を用意した。カメラの向こうでニヤリと笑うオリヴェイラの顔が目に浮かぶようだ。フルシチョフを演じたミシェル・ピッコリのマヌケ加減が、絶妙な笑いを誘う。



「カンヌから5557マイル A 8 944 km de Cannes」
監督:ウォルター・サレス・Jr Walter Salles Jr.

カンヌから5557マイル離れた、ブラジルはミゲルペレイラという小村。カスターニャとカジュの仲良しストリート・ミュージシャンコンビは、今日も真昼間から通りをブラブラしている。今にも倒れそうな村で一軒きりの映画館では、トリュフォーの「大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups」が上映されている。だがカジュには、この映画がポルノだかなんだか理解できない。そんな映画無知な親友に、カスターニャは自慢げにカンヌで賞を取った名作だと解説する。なんと彼はカンヌまで映画祭を見にいったことがあるというのだ!カジュはそんなの嘘っぱちだ、その頃お前はブタ箱に入ってただろうと混ぜっ返す。2人はタンバリンでリズムをとりながら、お得意のラップを披露。
カンヌのレッドカーペットのなんと煌びやかなことか、でもみんな頭の中はパルムドールをぶんどることで一杯とカスターニャが水を向ければ、映画などただの幻影にすぎないというカジュは、別嬪を腕に抱くことこそが真の人生だとやり返す。いくら映画がゴージャスでも、俺達の暮らしはいつも貧困と争いと隣り合わせ、映画界の人間なんぞに現実世界の厳しさがわかるものか。ラップでご機嫌の2人は結局映画館には入らず、家路に着く。ここでカスターニャはついに白状した。本当はカンヌなんぞに行ったことなどないのだ。どうして映画祭のことを知ったかといえば、便利なインターネットで情報を仕入れたに過ぎない。カンヌの親分ジル某(Gilles Jacob)にだって会ったこともない。“ジル Gil”といえば、ブラジル人にとっては“ジルベルト・ジル Gilberto Gil”なのだから、それも致し方ないのだが。

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今企画中、最も笑わせてもらったのがこの作品だ。いや、ウォルター・サレス(ポルトガル語読みに近い発音はヴァルテル・サレス)といえば、「セントラル・ステーション Central do Brasil」(1998年)「モーターサイクル・ダイアリーズ Diarios de motocicleta」(2004年)といった、南米の厳しい社会状況や一種独特な文化背景を基にした、極めて真面目な作風で知られる映画作家。彼の中にこんなシニカルなユーモアが潜んでいようとは!とにかく、2人のストリート・ミュージシャン、カスターニャとカジャの、ご機嫌な掛け合いを見て欲しい。“俺は「父 パードレ・パドローネ Padre Padrone」(1977年)だって「ベルリン天使の詩 Der Himmel über Berlin / Wings of Desire」(1987年)だって、カンヌの映画は全部観た”“確かにお前はカンヌの王様、でもここじゃただの食いっぱぐれ”など、ブラジル版ラップとでも呼ぶべきその飄々としたノリは、とても言葉では表現できない。思わずこちらも膝でリズムを取りたくなること請け合いだ。しかし彼らのやり取りの中にも、社会的視点がさりげなく盛り込まれているのは、さすがサレス監督である。それにしても、劇中槍玉に上がっていた本企画の立役者ジル・ジャコブ Gilles Jacobは、一体どんな顔をしてこれを観たのだろうな。



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