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zoom RSS クローネンバーグのシネマへの伝言―「それぞれのシネマTo Each His Own Cinema」

<<   作成日時 : 2017/04/18 14:30   >>

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2007年、カンヌ国際映画祭は誕生して60回目の開催を迎えた。この記念すべき区切りを祝うため、ジル・ジャコブは、カンヌにゆかりの深い世界中の映画監督たちに3分間の短編製作を依頼した。

―あなたにとって“映画館”とは何か、自由なイマジネーションで、3分の短編映画を撮って欲しい…―

そうして集まった、名だたる映画監督からの33編。これらはきっと、彼らの“映画館”に宛てたラブレターだったのだ。

…しかし、自作の中で“世界で最後のユダヤ人”に扮したクローネンバーグのそれは、私たちに一体何を伝えたかったのだろう。

それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~ [DVD]
角川エンタテインメント
2008-07-04

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「それぞれのシネマ〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜」(2007年製作)
(CHACUN SON CINEMA OU CE PETIT COUP AU COEUR QUAND LA LUMIERE S'ETEINT ET QUE LE FILM COMMENCE)
(TO EACH HIS OWN CINEMA)

監督:レイモン・ドゥパルドン「夏の映画館」
北野武「素晴らしき休日」
テオ・アンゲロプロス「3分間」
アンドレイ・コンチャロフスキー「暗闇の中で」
ナンニ・モレッティ「映画ファンの日記」
ホウ・シャオシェン「電姫戯院」
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ「暗闇」
デヴィッド・リンチ「アブサーダ」
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ「アナ」
チャン・イーモウ「映画を見る」
アモス・ギタイ「ハイファの悪霊」
ジェーン・カンピオン「レディ・バグ」
アトム・エゴヤン「アルトー(2本立て)」
アキ・カウリスマキ「鋳造所」
オリヴィエ・アサヤス「再燃」
ユーセフ・シャヒーン「47年後」
ツァイ・ミンリャン「これは夢」
ラース・フォン・トリアー「職業」
ラウル・ルイス「贈り物」
クロード・ルルーシュ「街角の映画館」
ガス・ヴァン・サント「ファースト・キス」
ロマン・ポランスキー「エロティックな映画」
マイケル・チミノ「翻訳不要」
デヴィッド・クローネンバーグ「最後の映画館における最後のユダヤ人の自殺 At the Suicide of the Last Jew in the World in the Last Cinema in the World」
ウォン・カーウァイ「君のために9千キロ旅してきた」
アッバス・キアロスタミ「ロミオはどこ?」
ビレ・アウグスト「最後のデート・ショウ」
エリア・スレイマン「臆病」
マノエル・デ・オリヴェイラ「唯一の出会い」
ウォルター・サレス「カンヌから5557マイル」
ヴィム・ヴェンダース「平和の中の戦争」
チェン・カイコー「チュウシン村」
ケン・ローチ「ハッピーエンド」
製作:ジル・ジャコブ

発売されたDVDを観賞した。このコンピレーションは、日本でも2007年11月に第8回東京フィルメックスのオープニング作品として劇場公開が実現している。なお、コーエン兄弟の「ワールドシネマ」は公開時も未収録であったが、今回のDVD版にも収められていない。ただし、マイケル・チミノ監督の作品は無事収録されることになった。商業映画の世界から離れて久しいチミノ監督であるが、その混沌とした映像世界は相変わらずで、たった3分間の邂逅であったにもかかわらず、画面のこちら側で思わずニヤリとさせられた。
上記した監督名と作品名の順番は、劇場公開時ではなく、DVDに収録されたものに準拠する。


さて、たった3分間の映像であっても、それぞれの作家性が濃厚に沁みだすのは、やはり映画祭で何らかの賞を授与された経験を持つ、才能豊かな監督である所以だろう。全ての作品の短評は後述することにして、今回はカンヌで上映時にも、また日本公開当時も賛否両論分かれたクローネンバーグ監督の作品に触れさせて欲しい。

「最後の映画館における最後のユダヤ人の自殺 At the Suicide of the Last Jew in the World in the Last Cinema in the World」
監督:デヴィッド・クローネンバーグ David Cronenberg
出演:デヴィッド・クローネンバーグ David Cronenberg

画像


薄汚れた映画館のトイレの中。
くたびれ果てた1人の初老の男が、震える手に拳銃と弾丸を持っている。そして銃口を自身に向け、表情を苦悶に歪ませる。…どうやら男は拳銃自殺を企てようとしているらしい。さらには、今現在男の映像は、自動カメラで世界に向けて生中継されているようなのだ。というのも、映像の背後に、ニュースキャスターらしき若い男女の“解説”が流れているからだ。
キャスターたちは、今死にゆかんとしている男が、かつてブダペストの映画界で働いていたこと、そして正真正銘最後のハンガリー系ユダヤ人であることを揶揄しつつ話している。この世界では、“映画”という伝統は根絶やしにされ、“組織”によって映画に関連するものは全て破壊された。さらには、映画界にも大きな影響を与えていた“ユダヤ人”たちもまた、ことごとく抹殺されているのだ。…そう、ユダヤ人である男は、組織による“処刑”という手段を選んでも良かったのだ。キャスターは不満げに言い募る。処刑の模様を生中継した方が、視聴者にはよりエキサイティングだったと。だがしかし、地上最後のユダヤ人には、人間としての最後の尊厳が与えられた。それがすなわち“自殺”という手段を選択することだ。
ところが画面上の男は踏ん切りがつかないのか、なかなか引き金を引くことができない。自らが死ぬところを、世界中の人間に見てもらいたいと願ったにもかかわらず。それが最後のユダヤ人としての、最後の映画人としての最後の矜持であったにもかかわらず。人間はいざ死を目前にすると、本能的に恐怖におののいてしまうものなのだ。男の躊躇する様子が長引くにつれ、キャスターたちにも幾分かの緊張が走る。“ショー”がなかなか始まらないことにイラついているようにも、ひょっとしたら心のどこかで、このまま男が自殺を思いとどまってくれればよいと願っているようにも感じられる。そして、その微妙な緊張感は、中継を見つめる大勢の“私たち”にも等しく共有されるのだ。
しかし、キャスターの厳かな声が不穏な空気を遮断し、男の死刑執行にGoサインを出した。
「男がどうしようと、私たちは最後まで事の成り行きを見守っていましょう…」


確かに、監督たちに与えられた命題は“映画館への愛情”である。企画に参加した監督たちの多くは、自身の映画館との関わりを、時にノスタルジックに時にコミカルに、また時にはシニカルに、映画にまつわる思い出と絡めて描いていた。表現方法は違えども、大抵の作品には映画と映画館に溢れんばかりの愛情が込められていることが伺える。映画館内で、マナーの悪い客に文字通り死の制裁を下す映画人を自ら演じて見せた狂人ラース・フォン・トリアーの作品ですら、あれはひねくれた形の映画への愛情表現であると解釈できる。まあ、ホラー映画さながらの流血描写に、嫌悪感を抱く人が出てくるのも仕方がないが。
ところが、このクローネンバーグの作品だけは、他のいかなる監督作品とも相容れない、異質の存在だと思う。彼は他の監督のように、映画の行く末を憂えているわけでも、遠い過去の思い出に甘い感傷を抱いているわけでもない。そもそも彼自身が、現時点において映画を愛しているのかどうかも定かではない。彼が描くのは、“組織”と表現される全体主義社会によって、映画の歴史も遺産もすべて“悪しき習慣”として破壊され、金儲けの上手いユダヤ人がかつてのナチスによる殺戮さながら虐殺されているという、近未来デストピアだ。画面には映画館すら出てこず、映っているのはごみごみしたトイレのみという痛烈さ。ここでは映画の歴史は愚弄され、映画界とは切っても切れない関係にあるユダヤ人共々、ゴミのごとく扱われる。最後に生き残ったユダヤ人の自殺の模様をテレビ中継するという、悪趣味極まりない設定からして冗談では済まされない内容であろう。ここには映画への愛情も敬意も何もないように感じられるのだ。カンヌでもブーイングする者がいたそうだし、企画の趣旨に合致しないのではという評価もあるが、さもありなん。クローネンバーグは、ここでもタブーを安々と超えてしまったのだ。
私には、この作品を荒唐無稽だと切り捨てることはできない。考えてみれば、いまだユダヤ人への偏見は連綿と続いているのであるし、巨大ビジネスに食いつぶされようとしている現在の映画界の危機は火を見るより明らか。つまり、本作の根底に流れている意識―マイノリティの排除、映画の死―とは、実際に存在するものだといえないだろうか。それを踏まえた上で、ユダヤ人であることのアイデンティティと、映画の商業主義と芸術性の軋轢に絶えず苦しめられてきたクローネンバーグならではの、積もり積もった怨念が呪詛のごとく繰り広げられているのである。“映画への愛情”などという、甘ったるい真綿で己の本音をくるんでしまうことを良しとせず、自分自身が映画に対して思うところを率直に語っているクローネンバーグ。その勇気に少し安堵を覚えた私であった。
以前にクローネンバーグの短編「camera」をご紹介したことがあるが、これも本作同様、彼と映画の間に横たわる複雑で微妙な距離感を描いたものである。どうもクローネンバーグという人は、単純に “映画が大好きです!”と言えない性分のようだ(笑)。彼にとっての映画とは、“愛の対象”というよりは、むしろ己の中の闇を解析するための“ツール”であるのだろう。

画像

…いくつになっても“天邪鬼”な男。


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