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zoom RSS 「裁かるるジャンヌ」Part2―カール・Th・ドライヤー監督Carl Th Dreyer

<<   作成日時 : 2016/12/23 15:01   >>

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「エリザベス:ゴールデン・エイジ Elizabeth: The Golden Age」をご覧になった人なら、背水の陣でスペイン無敵艦隊を迎えうつエリザベスが、自ら甲冑に身を固めて兵士たちの前に躍り出るシーンを覚えておいでのことだろうと思う。長い髪を風にたなびかせ、白馬の上で民衆に勝利を誓う女王の姿は、歴史にそう興味のない人間にも、ある1人の女性を容易に想起せしめるであろう。そう、英国の侵略から故国フランスを救った聖女ジャンヌ・ダルクである。

フランス史の中でも、ナポレオンと比肩して世界にその名をとどろかせる女性ジャンヌ・ダルク。彼女は、その特異な生き様によって、歴史の中に登場する一有名人という存在を越え、今やある種のイコンとなっている。偉大なるフランスの英雄、悲劇の殉教者、歴史のうねりに飲み込まれた哀れな乙女、男性による女性性の弾圧や宗教の理不尽の象徴…。彼女を一言で形容するのは非常に難しい。

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(ジャン・ダルク Jeanne d'Arc像。パリに住んでいると、ジャンヌ・ダルクがいかにフランスの人々にとって大きな存在であるかが実感できる)

しかしドライヤー監督がこの映画の中で試みようとしたのは、純粋で崇高な精神を内包しながらも、極めて人間的な感情―死への恐れや侮蔑への怒り、無理解への無念―に揺り動かされる少女の葛藤を、余すところなく浮き彫りにすること。ジャンヌはフランス史最大の英雄であり、今や聖人にも列せられる女性だが、監督が焦点を当てたのはあくまでも彼女の内面である。一心に神を信じたためにその声を聞き、他国に蹂躙される祖国フランスを救わんと義憤に駆られた大きな情熱が、ごく普通の農家の娘にすぎない少女のどこから生まれたのか。異端審問裁判での彼女と聖職者たちの激しいやりとりを通じ、彼女自身がその根源的な問題に自ら解答を見出すまでを、徹頭徹尾リアルかつ緊迫したタッチで描いている。

実は、ジャンヌ・ダルクを描いた映画は、他にもいくつか存在する。

「ジャンヌ・ダーク Joan of Arc」(1948年製作、アメリカ)
監督:ヴィクター・フレミング Victor Fleming
主演:イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman

「火刑台上のジャンヌ・ダルク Giovanna d'Arco al rogo」(1954年製作、イタリア・フランス合作)
監督:ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini
主演:イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman

「聖女ジャンヌ・ダーク Saint Joan」(1957年制作、イギリス・アメリカ合作)
監督:オットー・プレミンジャー Otto Preminger
主演:ジーン・セバーグ Jean Seberg

「ジャンヌダルク裁判 Proces de Jeanne d'Arc」(1962年製作、フランス)
監督:ロベール・ブレッソン Robert Bresson
主演:フロランス・カレ Florence Carrez (Florence Delay)

「ジャンヌ/愛と自由の天使 Jeanne la Pucelle I - Les batailles」「ジャンヌ/薔薇の十字架 eanne la Pucelle II - Les prisons」(1994年製作、フランス)
監督:ジャック・リヴェット Jacques Rivette
主演:サンドリーヌ・ボネール Sandrine Bonnaire

「ジャンヌ・ダルク The Messenger: The Story of Joan of Arc」(1999年製作、アメリカ)
監督:リュック・ベッソン Luc Besson
主役:ミラ・ジョヴォヴィッチ Milla Jovovich

ジャンヌを聖女として徹底して賛美する作品、あるいは、ジャンヌをその時代を代表するヒロインとして悲劇的に捉える作品、または、ジャンヌをごく普通の乙女として見つめ、彼女が歴史に翻弄される様を同情をもって描く作品…。作品によってジャンヌ・ダルク像は様々ではあるが、ドライヤー監督の「裁かるるジャンヌ」は、このいずれの作品にもカテゴライズされない特色を持つ、極めて特異な位置を占める映画であるのだ。
なぜそうなったのか、まずはこの作品の成り立ちと、その後フィルムが辿ることになる数奇な運命を簡単に説明する必要があると思う。以下、DVDに付属していた解説から抜粋する。

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「裁かるるジャンヌ La Passion de Jeanne d'Arc」(1928年)

1926年3月にフランスで公開されたドライヤー監督の作品「あるじ」は、ドイツ室内劇映画の様式に則った映画であったが、そのシニカルな内容は軽妙で、むしろフランス人の好みにあうものであった。結果としてこの作品は、フランスで興行面においても批評面においても大成功を収め、監督は一躍フランスで注目の映画作家となる。フランスの新進映画製作会社ソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルム社は、1926年4月に彼と映画製作契約を結び、アベル・ガンス監督の「ナポレオン」に匹敵する歴史大作の製作を依頼した。提示された題材は3つ。マリー・アントワネット、カトリーヌ・ド・メディシス、ジャンヌ・ダルクという、いずれもフランス史において大きな影響を及ぼした女性たちの生涯だ。ジャンヌ・ダルクに関しては、1920年にローマ法王によって列聖化されて以来、ヨーロッパでいわゆる“ブーム”が続いている状態であった。監督が最終的にジャンヌを題材に選んだことは、映画会社にとっても好都合だったのである。
映画会社の副社長エイヤン侯は、監督の才能に全幅の信頼を置き、「ジャンヌ・ダルク」という小説を上梓していた作家ジョゼフ・デルテイユに脚本の執筆を依頼した。しかし監督はデルテイユの仕上げたコンテンツに不満を覚え、そのほとんど全てを採用しなかったという。彼は自身の考える独自のジャンヌ・ダルク像を構築するため、パリの国立図書館に収蔵されているジャンヌの異端審問裁判記録の原史料を徹底的に洗い直すことにした。そのため、実質上脚本に協力したのは、裁判記録の専門家ピエール・シャンピオンであった。

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ドライヤー監督が、ジャンヌ・ダルクをフランスの英雄として捉えていないことは、早くから映画会社内でも問題になっていた。監督による映画製作は中止の憂き目に合うところであったが、エイヤン侯の個人的なバックアップで辛うじて撮影が可能となる。しかし、フランス国内でのドライヤー監督への風当たりは強くなる一方であった。ジャンヌ・ダルクをフランスの栄光のシンボルとみなす、右派的国粋主義者たちによる反動である。外国人の映画監督にジャンヌの映画を汚されるのはフランスの恥であるとまで声高に唱える者もいた。そしてドライヤー監督によるジャンヌ映画へのアンチテーゼとして、「ジャンヌ・ダルクの驚くべき生涯」(1929年製作、マルコ・ドゥ・ガスチヌ監督、シモーヌ・ジュヌヴォワ主演)が企画されたりもした。

監督はこうした外野の騒音に一切耳を貸さず、裁判記録から浮かび上がる“人間”ジャンヌ・ダルクの実像をひたすら追い求めた。そして、観客にジャンヌの心理の変化をより激しく追体験させるため、大胆な脚色を試みている。ジャンヌの裁判は、実際には1431年1月9日から5月30日までの間に合計29回行われたのだが、監督はこの約5ヶ月間に渡る裁判を、ジャンヌが処刑される5月30日のたった1日に凝縮したのである。時間軸を意図的にゆがめることで、審問官たちに追い詰められていくジャンヌの、刻一刻と変貌していく内面の変化が劇的にあらわされることになった。結果として、映画のドラマ性が強調されたのである。

脚本が仕上がると、ドライヤー監督はスタッフとキャストの選定を行った。撮影監督は、以前「ミカエル」で組んだルドルフ・マテ、ドライヤー監督作品では重きを置かれる舞台美術に、「カリガリ博士」のヘルマン・ヴァルムとヴィクトル・ユーゴーの孫でもあるジャン・ユーゴーがあたり、衣装はジャンの妻ヴァレンチーヌが担当した。難航したのは主役のジャンヌのキャスティングである。映画的ドラマ性の虚構と徹底したリアリズムを高次元で融合させようと意欲を燃やすドライヤー監督は、出演者全員にメイクを禁じ、またジャンヌ役の女優は劇中実際に髪の毛を刈られることになっていた。これに恐れをなした数多くの女優達に出演を断られた挙句、監督が最後に辿り着いた女優が、当時コメディー・フランセーズで舞台に立っていたルネ・ファルコネッティである。監督が見た舞台で、ファルコネッティがたまたま“ボーイッシュな女の子”を好演していたのが縁となり、彼女は生涯唯一の出演映画作品となる「裁かるるジャンヌ」への出演を決意するのであった。ファルコネッティは、実際に撮影に入る10ヶ月も前から、自身が演じることになるジャンヌにとり憑かれていたという。彼女自身も知る由がなかった、彼女の中に眠るジャンヌと共鳴する魂が、ドライヤー監督によって目覚めさせられたというべきか。

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ビヤンクール・スタジオで人物の顔に肉薄するクローズアップ撮影が行われる最中、プティ=クラマールの空き地では中世のルーアンの街を忠実に再現した大掛かりなオープン・セットが建設されていた。この作品が語られる際に必ず引き合いに出される特異な仰角撮影のため、セットのあちこちに四角の穴が掘られたことも有名な逸話である。監督は、室内でもロケでも納得がいくまでいくつもテイクを重ね、スケジュールを犠牲にしても物語の順序通りに撮影することを固持した。セットの建設にも莫大な費用が投じられたが、結果として撮影スケジュールも大幅に遅れ、最終的に撮影されたフィルムは85000メートルに及び、費やされた費用は900万フランを超え、すべての撮影が終了したのは撮影開始からおよそ10ヵ月後のことであった。

「裁かるるジャンヌ」のワールド・プレミアは、ドライヤー監督に敬意を払ってデンマークのコペンハーゲンで行われた。1928年4月21日、コペンハーゲン、パラス劇場でのことだ。しかしこのデンマーク公開用に作られたフィルムは、やがて歴史の闇の中に消えていく。フランスでは、当時としては非常に前衛的なジャンヌ像に不快感を覚えたカトリック教会が、映画の内容にクレームをつける騒ぎが起こった。パリの大司教の検閲の下、映画はドライヤー監督の意向を無視してずたずたに改変され、 1928年10月25日からパリで封切られた。つまりデンマーク以外の国では、一般の観客はこの改変が施された版しか目にすることが出来なかったのである。これでは、映画に正統な評価を与えることなど不可能な話だ。当然のごとく、「裁かるるジャンヌ」は、当時の一般観客や批評家の理解の範疇を超える作品としてしか認識されず、興行的にも批評的にも惨敗する結果となった。

その後、映画のオリジナル・ネガを保管した倉庫の度重なる火災、莫大な製作費を回収出来なかったソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルム社の倒産といった不幸が重なり、検閲前のオリジナル・ネガも、映画に未使用だった貴重なネガも散逸する事態を招く。作品が公開されたタイミングも悪かった。当時トーキー映画の時代が到来しており、観客は無声映画への関心を急速になくしていたのである。こうして、時代の精神を先取りしすぎ、人々の理解を得られなかった「裁かるるジャンヌ」は、ひっそりと映画史の記憶から消えていった。

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この作品の中のジャンヌは、極めて不安定かつ把握しがたい存在である。敵方に捕えられ、死の恐怖に慄く1人の少女に過ぎないかと思えば、己の信仰心を愚弄するかのような審問官たちの言には真っ向から反発する気概を見せる。農民の娘ゆえ学を持たず、自身の年齢も知らなければ文字の読み書きも出来ない非力な少女であるというのに、他人の言葉尻を捉えて論理の矛盾を突くことにのみ長けた審問官たちの捩れた知性を、あっさり覆すような鮮やかな真理を説いてみせる。

実際のジャンヌの異端審問裁判の記録書から書き起こされたという劇中の台詞は、監督独自の解釈を加味した分を差し引いても、かなりの確率で信頼に足る内容であると思う。ジャンヌの展開したある種奇跡的な答弁のすべては、彼女がその魂を捧げ尽くしている神ただ1人によってのみ導かれ、なんの矛盾もなく彼女の中で完結している真理から発せられているのだ。よく考えてみて欲しい。無知に近い状態の娘が、なぜ神への信仰心の根源を知っていたのか。学の高い聖職者たちをして未だ到達し得ないはずの神の真理を、なぜ彼女は本能的に悟っていたのか。それに、神を信じるという行為は、ある意味人間の本能に根ざしている。人間はなぜに神を神じ、そして神とは人間にとって一体なんであるのか。それを追及すると、いずれは“人とはなんぞや”という最も根源的な疑問に辿り着くものだ。つまりジャンヌは、わずか19歳にして、神を通じて既に人間の本質をも知っていたことになる。これこそがいわゆる“奇跡”というものではなかろうか。ジャンヌの体現した奇跡とは、なにも大天使ミカエルを幻視したかどうかという現象だけで語られるものではない。たった1人の少女が救国の勇士となった史実ですらない。シャルル王を見分けたかどうかなど、ほんの瑣末なことでしかないのだ。

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登場人物の皮膚の毛穴まで明らかにするクローズアップの連続は、ジャンヌのみならず、彼女に異端の烙印を押そうと躍起になる審問官たちの表情をも克明に映す。私たちは、彼ら審問官たちの変化によって、ジャンヌという人間の一端を知ることが出来る。審問官たちは当初、ジャンヌをただの信仰心篤い田舎の小娘だとたかをくくっていた。が、尋問が始まるとほどなくして、彼女が世間での噂どおり“神の奇跡”をその身の内に宿していると感じるようになる。それはコション、ロワズルールですらそうだ。ジャンヌの命など容易に握りつぶせる立場にありながら、彼ら審問官たちは次第に彼女を前に焦りの色を濃くしていく。それは他でもない、神に最も近い存在であるはずの彼らを出し抜いて、1人の無学な小娘が宗教の本質そのものを知りえているという事実のためである。

コション以下審問官たちがジャンヌに異端を認めさせようと(キリスト教徒であることをやめさせようと)、執拗に彼女を痛めつける理由はそこにある。神の真理を知るのは、無知な少女ではなく審問官たちだけでよいからだ。そうでなければ、教会の存在意義など消し飛んでしまうではないか。神を知るジャンヌは、教会の存在そのものを脅かす脅威であったのだ。彼女のように、あまりに純粋な疑うことを知らぬ信仰心は、時として他者に計り知れない威圧感を与えるものだ。だからこそ審問官たちは彼女を異端に貶め、また後世の人間は彼女を精神分裂病だと断じてしまう。ドライヤー監督がこの作品を撮影していた当時、ジャンヌの現象を妄想の一種だと判断する説があったかどうかは定かではない。しかし、立場の弱い女性が世間で突出すると、それを許容しない社会からの圧力が無言のうちに彼女に襲い掛かるという普遍的な悲劇の構造は、監督の頭の中にあったのではないか。これは私の推測だが、非寛容な社会の中で翻弄され、挙句の果てに自殺を選ばざるを得なかった彼の母親の姿が、異端審問裁判の中で追い詰められていくジャンヌの姿に重なるような気がしてならない。

審問官たちに対しては揺らぐことのない信念を貫くジャンヌは、しかし裁きの場を離れると、拷問や火刑の恐怖に慄く少女の一面を見せる。それは人間として当たり前の心理状態であろう。むしろ、審問官たちが仕掛ける卑劣な尋問や罠の網の目を掻い潜り、彼女が一貫して自分なりの神への愛を曲げなかったことの方が、奇跡であると言える。劇中、異端を認めぬジャンヌに業を煮やしたコションたちが、数々の不気味な拷問器具の前に彼女を引きずり出すシーンがある。唸りを上げるように動き始める拷問器具と、顔面蒼白になりつつも信念を曲げぬジャンヌの、目を剥きひき歪む表情が交互に映し出され、作品中最も緊迫度を増すシークェンスである。彼女にとって、そうまでして守りたかったものは何なのだろう。いくら神を愛しても、己の命あっての信仰ではないのかと思うのが人情だ。神に縋るのは己の心の安寧のため。しかしジャンヌにとっては信仰はイコール自身の死を示していたのだから。

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思うに、彼女にとっては、神の存在を確信できずに…つまり、自分の信仰心そのものを信ずることができずにいることの方が、死よりも戦慄すべき恐怖であったのだろう。それは、信じる心を失いつつある、私たち現代人の理解を遥かに超えた概念だ。反面、自身の命すら投げ打ち、ひとえに神への愛に生きたジャンヌという生き方を見るにつけ、うらやましいとも思えてしまう。

火刑台に転がる骸骨を見て、ついに異端を認めてしまったジャンヌが、たちまち自身の犯した過ちを悔いて異端を撤回する一連のシーンをよく観て欲しい。火刑の恐怖に負けて神の声(彼女にしか聞こえないとしても)を失った彼女が、ようやく殉教する決意を固めたのを見て、コションたち審問官はなんとも複雑な表情を浮かべる。それは、ジャンヌが死の恐怖にさえ打ち勝ち、ついに信念を貫いて真の“聖女”となった瞬間であるからだ。彼らの顔には明らかに憧憬の色が浮ぶ。ジャンヌの身を案じ、裁きの場の中で唯一彼女の味方となったジャン・マシューだけではない。神に身を捧げたはずの審問官たちが、本当は手にしたくとも届かぬ信仰の最終様式―殉教―を、ジャンヌが実現してみせたからだ。そして、ジャンヌを文字通り“聖女”に至らしめてしまったのが、他ならぬ自分たち審問官自身であるという皮肉。コションの顔には、ジャンヌを羨む気持ちと自嘲の念が相次いで現れる。

カメラは、死の断末魔にすくみ上がるジャンヌの肉体が、煙を上げながら燃え続け、やがては黒い炭の塊と化していくまでをじっくりと映し出す。その悲惨な光景が決してグロテスクにならないのは、カメラがジャンヌの火刑に反対する民衆の様子を同時に捉えているからだ。紅蓮の炎で焼け焦げていくジャンヌの肉体は破壊されても、母親の乳にしがみつく乳飲み子はふくふくとし、生き生きとした新たな命を象徴している。ドライヤー監督は、ジャンヌのフランスと神を愛する魂は、つまりジャンヌの中に宿る大いなる母性は、形を変え、やがては時代をも超えて、子供たちに受け継がれていくのだと言いたいのだろう。
監督はジャンヌの中に“母性”を見出している。まさにこの点において、「裁かるるジャンヌ」は他の数多いジャンヌ伝記映画と一線を画しているといえる。と同時に、ジャンヌを死に追いやった審問官たちもまた、まさにこの点において完全にジャンヌに敗北しているのである。聖職者たちの物質的な権勢は、確かにこの世を栄華するものであろうが、それとて未来永劫続くものではない。そして現にジャンヌの精神は、後世にまで広く伝えられることになったのである。

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製作当時既にトーキー映画の時代が到来していたにもかかわらず、あくまでも無声映画の形態にこだわり、その可能性の極限に迫るかのようなストイックな作風もまた、作品を映画史の中で孤高の存在にならしめた。視覚と聴覚から構成される映画の大きな特性である“音”を限定することにより、観る者は自然と映像の構成そのものに注意を払わずにはいられない。俳優達は皆、無声映画にはありえないことに、ちゃんと膨大な量の台詞をしゃべっているのが見て取れる。その証拠に字幕は台詞の洪水状態だ。また、登場人物の些細な心理の変化をも見逃すまいと、対象に大接近するクローズアップの連続は、観る者に奇妙な錯覚を与える。対象となる人物と周囲の空間との距離感が曖昧になり、映像上の出来事が実際に起こっている事なのか、それとも妄想のあわいに私達が見る幻想に過ぎないのか、判断がつき難くなるのだ。歪められているのは時間軸だけではない。空間すらも、ジャンヌの魂を追体験するという崇高な目的のために、大胆に歪められているのだ。

反面、ジャンヌが屋外に引きずり出されてからの、オープン・セットにおけるロケ撮影は実に対照的だ。カメラは、天高い位置から、ジャンヌを慕って暴れる民衆やそれを抑えようと奮闘する警備兵達を捉える。ジャンヌの頭上には高く鳩が舞う様も見える。3次元を存分に駆使した空間的な映像は、炎と共に天に昇っていったであろうジャンヌの清らかな魂を象徴するかのようである。これは既に“映画”という概念すら超越してしまった作品であるのかもしれない。

さて、「裁かるるジャンヌ」に再びスポットライトが当たるようになったのは、1940年代に入ってから。映画史研究家のロ・デュカが、散逸した映画のプリントの行方を調査し始めたことがきっかけだった。彼は映画未使用のネガを発見し、自分で編集してフランス語の字幕と音楽までつけて、1952年に一般公開に踏み切った。確かに美しい画像を保持していたそのロ・デュカ版は、当然ドライヤー監督の与り知らぬところで勝手に編集されたものであり、監督当人の激しい抗議を受ける。しかしその後も「裁かるるジャンヌ」のフィルムは、ドライヤー監督の手を離れたところで勝手にコピーされたり、第2ネガから何度もデュープされた粗悪なプリントが量産され、作者の意図を踏みにじった形で公開され続けた。

1960年代半ば、デンマーク映画博物館(デンマーク映画協会映画アーカイヴ)は、「裁かるるジャンヌ」のプリントの復元を正式に開始した。長い調査の結果、1984年11月に、突如完全版のオリジナル・ネガ(もちろんデンマーク語字幕つき)が発見される。実は1981年に、ノルウェーのオスロ近郊にある精神病院ディケマルク医院の倉庫の中で、長年放置されたまま埃を被った映画のフィルム缶が偶然発見されたのである。病院側はこのフィルムをオスロの映画アーカイヴに寄贈し、アーカイヴ側も中身を確認しないまま、それを 3年間もほったらかしにしておいた。1984年になってはじめて缶が開けられ、既に歴史から消え去ったものと思われていた、いかなる改変もされていない完全版の「裁かるるジャンヌ」が存在しているのがわかったというわけだ。イプ・モンティの尽力で、このオリジナル・プリントには大至急不燃化作業を施された。それが今、私たちの手にDVDという形で半永久的な財産としてあるわけだ。

まるで、何百年もの長い間キリスト教の歴史から黙殺されてきたジャンヌが、20世になってようやく認められたという数奇な運命を、映画も繰り返したようである。映画から立ちのぼるジャンヌの純粋な魂が現代の私たちにも届くように、人知を超えた力が働いた…と思ってしまう。それほど、映画の在り様とジャンヌのそれは深く深く共鳴しあっているのである。

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