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zoom RSS カール・Th・ドライヤーCarl Theodor Dreyer…胸に残るは母の面影

<<   作成日時 : 2017/05/15 06:00   >>

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―あなたにとって映画とは何ですか?

「…それは私のただひとつの偉大なる情熱です。」



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カール・Th(テオドア、テホ)・ドライヤー Carl Theodor Dreyer
カール・テオドール・ドライエル
カール・T・ドライエル
カール・ドライエル

1889年2月3日生まれ
1968年3月20日没
デンマーク、コペンハーゲン出身

カール・テオドア・ドライヤーの人生は、幕開けから波乱万丈であった。
スウェーデン在住のデンマーク人農夫であった父親と、スウェーデン人の家政婦であった母親との間に、1889年2月3日生を授かる。しかしながら、両者は未婚である上に父親が認知を拒否したため、母親は泣く泣く生まれたばかりの我が子を施設に預ける。その後少年は施設を転々とし、やがてデンマーク人のドライヤー家の養子となった。生母は翌1890年再び妊娠するが(相手は不明)、私生児であったため自ら燐を飲んで堕胎を試みたが失敗、そのまま帰らぬ人となる。
一方少年は、コペンハーゲンにあったドライヤー家で、その家長と同じ名前カール・テオドアを与えられ、厳しく育てられる。生活環境は苛酷で、食べ盛りの少年は常に飢え死にする一歩手前の状態であったという。唯一彼が心を許したのは、ドライヤー家の長女の結婚相手である音楽家。カール少年は彼からピアノの手ほどきを受け、めきめきと腕前を上げていく。強欲なドライヤー家の家長は、少年にピアノでもって自分の食い扶持を稼ぐように命令、少年はアーティスティックなピアニストを目指す夢を諦め、カフェで客のリクエストに答えるようになる。少年は、このままドライヤー家に留まっていても無意味だと悟り、優秀な成績で学校教育を終えるとすぐさま就職を決めて家を出る。そして二度とドライヤー家に足を向けることはなかった。
外国へ出ることを夢みて電信会社へ就職したものの、命ぜられた仕事は経理。一生数字と格闘する人生は送りたくないとばかりに、彼はすぐ会社をやめ、新聞に演劇・文学・芸術評などを書く仕事を始める。1910年にはジャーナリストとして立派に一本立ちしたが、なんとこの頃彼は、気球パイロットになるための訓練を受けている。ジャーナリストとしてより、むしろ気球パイロットとして名を知られるようになる。
1912年ドライヤーは、日刊紙エクストラブラゼツの紙上でコラムを連載し始める。様々な時事をユーモアに富んだ文章で綴るこのコラムは、読者に大変な人気を呼ぶ。仕事で映画監督にインタビューの機会を得たのもこの頃だ。それがきっかけで映画産業に興味を抱いた彼は、映画製作会社SRH社(後のダンマーク社)から依頼を受けて脚本を執筆、気球パイロットとして映画出演も果たす。
デンマーク最大の映画製作会社ノーディスク社は、脚本家、字幕作家としてドライヤーを招聘、彼はジャーナリストから映画産業へ華麗なる転身を図ったのだった。彼はここで映画製作に関する仕事全般にわたって大いに学び、やがて編集の仕事も任されるようになる。映画製作における編集の重要性は言うに及ばず、彼はこの経験から、映画製作の頂点に立つのはやはり監督であるという認識を新たにする。こうして、映画黎明期のノーディスク社でも頭角を現したドライヤーは、大いなる自負と共に、自分に監督の機会を与えるよう会社に直訴。上層部は1918年、オーストリア人作家の手になる通俗的メロドラマ小説「裁判長」の映画化を彼に託す。ヒロインの受難のドラマという、その後のドライヤー作品全ての背骨となるテーマが、この監督第1作目にすでに萌芽をみているのは興味深い。この作品で彼は、監督・脚本・編集・舞台美術の4役を1人でこなしている。
第2作目「サタンの書の数ページ」は1919年に製作が開始されたが、この作品は4つの時代に渡る悪魔と人間の攻防を描くもの。完璧主義のドライヤーは、ノーディスク社に膨大な製作資金を要求するが、ろくに収益も上げられない新人監督に対して怒りを爆発させた上層部は、これを却下。両者は鋭く対立するが、やがてドライヤーの方が折れ、撮影の規模を縮小して製作は無事終了する。ドライヤーに対する、“気難しい完全主義者”、“製作費を際限なく膨らませていく監督”というイメージは、この頃から定着した模様。
第1次世界大戦を経て、映画産業が下火になったデンマークを離れたドライヤーは、代わって力をつけ始めていたスウェーデン映画界に入る。1920年、スウェーデンの映画製作会社から資金援助を受け、「牧師の未亡人」というコミカルなタッチの小品を撮った。
次にドライヤーがメガホンを取るチャンスを得たのは、なんとドイツであった。ドイツの小さな映画製作会社のバックアップで、「不運な人々」を1921年に撮影する。折りしも、時を同じくして勃興したドイツ室内劇映画の様式の影響を如実に受けたこの作品で、彼は南ロシアにおけるユダヤ人迫害の歴史をリアルに描ききったという。これは、彼の作品で、初めて宗教(の偽善性と矛盾)というテーマが取り上げられた記念すべきものだった。外国の映画製作で大いに刺激を受けたドライヤーは再びデンマークに戻り、劇場主ソフス・マッセンの助力で純然たるデンマーク映画を撮る。1922年製作の「むかしむかし」がそれで、デンマークの詩人兼劇作家の舞台劇の映画化である。内容は、タイトルから想起される通り多分に童話的で、哲学的な深みを求める類の作品ではなかったようだが、映像の美しさと厳しいまでの力強さは、やはりドライヤーならではのもの。

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(via Kino Lorber)
再びドイツに渡ったドライヤーは、1924年、デンマーク人作家ヘアマン・バングの自伝的小説「ミカエル Michael」の二度目の映画化に着手した。ホモセクシュアルであった主人公ミカエルの苦悩を描くこの作品は、チャレンジングな題材以上に、室内劇でありながらも映像のダイナミズムを損なわない手法に、ドライヤーが確かな手ごたえを見出した記念すべき作品でもある。作品中に現出する閉鎖的空間は、主人公が陥っている心理状態を物語ると同時に、極めて夢幻的な映像美を観客に共有させることに成功した。

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(via Criterion)
ドイツで会得した室内劇の手法をデンマークで応用したのが、1925年の「あるじ Master of the House」であった。スヴェン・リンドム作の戯曲「暴君の失墜」の映画化だが、専制君主的な夫とその妻の心理的葛藤を軽妙に綴ったこの作品で、ドライヤーは室内で展開される日常生活の風景をスクリーン上に完璧に再現してみせた。いささかの映画的虚飾を交えないにも関わらず、登場人物のやり取りだけで、観客を一瞬たりとも飽きさせない緊迫感に満ちた不思議な映像。その後のドライヤー作品のトレードマークとなる特質がここに完成し、作品はデンマークのみならずフランスでも高く評価された。

「あるじ」が完成した直後、ノルウェーの製作会社に招かれたドライヤーは、土着的色彩の濃い小品「グロムダールの花嫁」を撮った。そしてその3年後、フランス映画界からの招聘を受けて、フランス史上最も有名な英雄であるジャンヌ・ダルクの生涯を映画化するという大企画に抜擢される。ジャンヌに関する異端裁判記録の綿密な堀り起こし作業を経て、ドライヤーは独自のジャンヌ解釈に到達する。
また、「ミカエル」から「あるじ」へと磨かれてきた室内劇の手法は、唯一無二の特異な映像表現として結実し、ジャンヌという1人の人間が持ちえた情熱、惑い、達観に至るまでの深層心理をくまなく描き出した。限られた空間を立体的に映し出すことで映像は奥行きを得、人物のクローズアップを多用することで物語は緊張をいや増し、ジャンヌ以外の人間たちの内面をも活写するという次第だ。時代はサウンド映画の黎明期。しかしこの作品は、ちまたに氾濫する陳腐な“音”に一切背を向け、無音の世界でリアルな描写と映画的美の完全なる融合を目指しているのだ。作品は、だからこそ時代を超越した斬新さを内包し、今も尚映画史上に燦然と輝く傑作たり得ている。だが当時の映画界も観客も、この作品を理解できなかった。ドライヤーの映画作家としての感覚は、彼らよりはるかに先んじていたのである。

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世界に先駆けてプレミア上映されたデンマークでも、カトリック教会からの抗議を受けて改変された版が上映されたフランスでも、非サウンド映画への観客の関心が急速に薄れていったことも後押しし、興行成績は惨敗状態であった。ドライヤーが己の精魂を傾けた「裁かるるジャンヌ The Passion of Joan of Arc」(当ブログ内記事Part 1, Part 2)は、結局膨大な製作費を回収することすら出来ず、製作元のソシエテ・ジェラール・ドゥ・フィルム社は倒産する。度重なるフィルム現像所の火災と、この製作会社倒産のせいで、いかなる改変も受けていない貴重なオリジナルネガは散逸、サイレント映画史屈指の傑作と謳われるこの作品は、歴史の闇の中に消えていったのである。

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(via Criterion)
この失敗は、ドライヤーの映画監督としてのキャリアに癒しがたい打撃を与えた。その後彼は、大手の製作会社に頼らず、思うとおりの作品を作るために、独立プロダクションを設立する。1930年、ベルギー人の貴族グンツブルグ男爵は、自分に主役を演じさせることを条件に、ドライヤーの独立プロに多額の金銭援助を行った。こうしてできあがったのが、ドライヤー初のサウンド映画となった「吸血鬼 Vampyr」である。吸血鬼と不条理な戦いを繰り広げる青年の悪夢を、夢かうつつか曖昧とした映像の中に描き出すという、一風変わったタイプの怪奇映画であった。役者は皆、意味を成さない言葉の羅列にすぎないセリフを呪詛し、まるでサイレント映画の伴奏のごとき音楽がぼんやりとした画面に被さるという、アヴァンギャルドな作風を展開したこの作品は、従来の吸血鬼ものの古典のセオリーを大胆にアレンジしたものでもあった。吸血鬼は女性であり、その餌食になるのもまた女性であるのだ。しかしながら、当然ドライヤーの先鋭的な映画精神が当時の映画界に受け入れられるはずもなく、現実と彼の志向する映画製作との間の溝は広がるばかりだった。その病的なまでの完全主義も、“製作会社を倒産させる疫病神”という不名誉な噂に拍車をかけ、ついに彼は映画を作ることが出来なくなってしまう。

1932年以降、彼は生活のためジャーナリズムの世界に戻ったが、その間もなんとか映画製作を実現しようと不屈の努力を続ける。

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1943年にようやく、ノルウェー人作家ハンス・ヴィアス・イェンセンの戯曲「アンネ・ペーダースドッテル Day of Wrath」を映像化する企画に参画したドライヤーは、本当の意味での演劇的映画を初めて完成させる。つまり、役者のアクションとセリフによって人物の内面の変遷を的確に描写し、観客にもそれをはっきりとわからせる手法である。16世紀のヨーロッパを恐怖のどん底に突き落とした魔女狩り。1人の老女に“魔女”の疑いがかけられる。当時、一度なりとも誰かから“魔女”の烙印を押されれば、その女は過酷な拷問にかけられ、哀れ火刑に処せられる運命に従わざるを得なくなる。老女に加えられる惨い仕打ちを間近で見ていたせいで、うら若きヒロインはついに魔性を己の中に見出すようになる。この女性の抱える二面性を通じ、ドライヤーは人間性の本質を暴いていった。
世界中が戦禍に覆い尽くされた。ナチスが台頭し、デンマークも占領される。ドライヤーは急ぎスウェーデンに逃れたが、必要に迫られてかの地で撮った作品が「二人の人間」(1944年)である。スイス人作家の戯曲「だまし討ち」の映画化作品だが、当然この企画は彼の望んだものではなく、できあがった作品も完全なる妥協の産物だった。ドライヤー自身も、これを自身の作品として認めていない。

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(via Criterion)
ようやく第2次世界大戦が終り、映画界も落ち着きを取り戻した。ドライヤーは、念願であったキリスト伝の映画化を切望するも、彼を巡る状況は依然として厳しく、1954年に至るまで実に10年もの間、数本の短編作品を製作したのみに終わってしまった。映画館館主として働きながら、1954年、ついにデンマーク人劇作家カイ・ムンクの戯曲「神の御言葉」を映画化するチャンスを掴んだ。この「奇跡 Ordet」では、20世紀初頭におけるデンマークの農民たちのつつましい生活を描いて、その生活にいかにキリスト教信仰が深く根付いていたかを明らかにする。そして、キリスト教の二つの派が派閥争いに明け暮れる様を通じて、諍いの絶えない人のサガをあぶり出していく。最後に描写される“奇跡”も、そうしたネガティヴな面すら全て呑み込んで、人が生きる意味の提示となっているのである。

ドライヤーはキリスト伝を映画化する企画に執念を燃やすが、時代がそれを許さなかった。かつての「裁かるるジャンヌ The Passion of Joan of Arc」のリバイバルを巡って、フィルムの改変問題でフランス映画界と論争を繰り広げたのもいけなかったのかもしれない。彼が人生最後となる長編映画を撮るのは、「奇跡 Ordet」の完成後、10年を経た後のことであった。

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(via Criterion)
スウェーデン人作家ヤルマール・セーデルベルイの戯曲「ゲアトルーズ(またはゲアトルード、ガートルード) Gertrud」は、ストーリーだけみれば、実に他愛ない女の話である。政治家として成功を収めつつある野心的な夫に不満を持った妻ゲアトルーズが、年若い愛人を作ったがやはり満たされず、その愛人とも別れるという陳腐なもの。ところが、これを1964年に映画化したドライヤーは、物語を完全に密閉された室内のみで展開する。限られた登場人物が室内で会話を交わすうちに、ゲアトルーズというヒロインの味わった様々な苦しみや喜びをあぶりだすのだ。基本的には舞台の会話劇を観るような構成ではあるが、ただの平板なシーンの羅列ではなく、映し出される空間はやがて1人の女性の人生を包括する崇高な場になっていく。ドライヤー最後の映画は、見慣れた凡百のメロドラマとは全く異なる次元に位置づけられることとなった。

この作品の後も、ドライヤーはキリスト伝映画化に向けて努力を重ねるが、1968年の初めに腰を痛めたことが原因で入院。結局肺炎を併発し、同年3月20日に死去した。享年79歳であった。

●フィルモグラフィー

長編映画
1918年「裁判長」
1919年「サタンの書の数ページ」
1920年「牧師の未亡人」
1921年「不運な人々」
1922年「むかしむかし」
1924年「ミカエル」
1925年「あるじ」
1925年「グロムダールの花嫁」
1928年「裁かるるジャンヌ」
1930年「吸血鬼」
1943年「怒りの日」
1944年「二人の人間」
1954年「奇跡」
1964年「ゲアトルーズ」
1988年「メディア Medea」(脚本)
ドライヤーが生前に書いていた未映像化作品の脚本が、同郷の映画監督で彼に心酔するラース・フォン・トリアー Lars von Trier監督によって復活。テレビムービーとして製作された。

短編映画
1942年「母親支援」
1946年「田舎の水」
1947年「村の教会」
1947年「癌との戦い」
1948年「彼らはフェリーに間に合った」
1949年「トーヴァルセン」
1950年「ストーストレーム橋」
1954年「城の中の城」

「カール・Th・ドライヤーの映画は、大抵の映画監督の限界点から花開いていくものだ」―ポーリーン・ケイル Pauline Kael

サイレント映画史の傑作としての評価を勝ち得ている「裁かるるジャンヌ」、あるいは宗教に翻弄される人々の生活を描いて名高い「奇跡」といった作品のせいで、ドライヤーという映画作家の作風は多分に宗教的であるという認識があるようです。
私が彼の作品に初めて触れたのは、やはり「裁かるるジャンヌ」(ただし改変を受けた後のプリントのもの)です。その後、奇跡的に発見されたかの映画のオリジナルフィルム(改変前)を元に復刻されたリバイバル上映を経て、2000年10月25日にDVD-BOXとして発売された「カール・ドライヤー傑作選」で彼の代表作「あるじ」(1925年)「吸血鬼」(1932年)「怒りの日」(1946年)「奇跡」(1954年)「ゲアトルーズ」(1964年)を鑑賞するに至りました。
これらの作品群を通じて感じるのは、ドライヤーという作家の焦点は、常に“人間の本質”にあてられていたということです。確かに、宗教を巡る人間の葛藤や、あるいはその犠牲になる女性の悲劇の人生といったモチーフが好んで取り上げられてはいます。しかしながら、そういった表面的なストーリーから徐々に浮かび上がるのは、やはり人間の深層心理の揺らぎであり、通常ならば目を背けてやり過ごされてしまうような人間の存在意義といった普遍的なテーマなのですね。

ならば、人間の本質を語るのに、なぜ宗教という枠組みを持ち出すのか。それはやはり、“宗教”というものの特殊性の所以でしょう。人間は知性を持つ生き物ながら、あるいはそれゆえに、心のどこかに未知なるものへの疑問や恐れ、不安を抱いています。それらを汲み取って、人間に拠って立つところを与えるのが、目に見えぬ絶対的存在、すなわち神であるわけです。宗教とはその神を知るためのガイドブックなのですね。1 人で立つには余りに心もとないこの厳しい世界で、唯一揺らぐことのない存在を手っ取り早く知らしめてくれる宗教に、民衆が飛びつくのは当たり前ですよね。
神は絶対ですから、人間は神に傅く代わりに、その罪深い内面をもさらけ出して赦しを乞おうとします。つまり、宗教を媒介として、人間は無意識のうちにその本質を明らかにしていると言えるのですね。平たく言えば、神に安寧を求める代価として、己の弱みを全て差し出しているわけで、そういった人間の心理構造を巧みに利用しているのが宗教を伝播する側の教会なのでしょう。ドライヤーが人間性を追及する素材として“宗教”に着目したのには、宗教を巡るこうした人間の行動があるせいでしょうね。
もう1つ、ドライヤーの映画で顕著なテーマは、“女性の受難”です。数多い作品で、女性は非常に特殊な地位を与えられ、一瞬劇中世界の中で突出する存在となります。ですが、結局周囲の不寛容、無理解の犠牲になっていくのですね。一見すると、ドライヤーの容赦のないサディスティックな目線が女性性に注がれているようにも感じられますが、実態は違うと思います。
彼の母親は、彼を産む前も産んだ後も、社会の底辺で苦境にあえぐ生活を送っていました。それは誰からも尊厳を与えられることのない、打ち捨てられた哀れな人生でした。彼女をいいように利用し、ゴミのように捨てていった周囲の人間たち。ドライヤーは、長じてジャーナリズムに身を投じるようになると、産みの母親のことを徹底的に調べ上げたそうです。彼女がどういう状況で彼を産み、そしてなぜ自らの命を絶たねばならなかったのか。そこで明らかになったのは、無知と貧困と絶望にあえいで救いを求める母親に、無情な社会が引導を渡したということです。本来どんな人間にでも居場所を提供するべきである社会が、実際には弱者を切り捨てていく残忍な一面を持っていたこと。この社会の不条理と不寛容は、すなわちそれを形作る人間の本質に直結するのではないか。ドライヤーが“人間”を描く際に、ことさらヒロインの悲劇をその象徴とするのには、母親が味わった屈辱への怒りが根底にあったでしょうね。弱い立場に立たされた女性に対し牙を剥く人間の闇を描いて、彼は永遠に失ってしまった母親、ひいては家族のぬくもりを映画に求めていたのかもしれません。

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私が観た作品だけでも、ドライヤーという映画作家の斬新な映像感覚を知るに充分でした。同じ作風の作品が2つとないのですよね。従来の映画に飽き足らず、彼が作品ごとに常に新しい表現方法を追及していた証拠でしょう。
空間を切り取る方法が一種独特で、それが室内劇であるということをうっかり忘れてしまうほど。人物の顔に急接近したかと思うと、カメラはその頭上高く舞い上がって、人々が右往左往する様を俯瞰する…。しかし、映像からは登場人物同士の配置がいまひとつはっきりせず、また彼らが今どこに立っているかすらわからず、その立体的な空間は奇妙に歪んでいる…。まるで映像が4次元の世界であるかのような錯覚さえ起こすのですね。ドライヤーの作り出す空間が、他の誰にも真似できないイマジネーションに溢れているからこそ、彼の映画は余計に聖性を醸しだすことになったわけです。
ドライヤーの不幸は、その前衛的と言ってもいい、時代を先行く斬新さが理解されなかったことです。皮肉にも、彼の母親が周囲の庇護を得られなかったように、彼自身もまた映画界の理解を得られず、志半ばで人知れず世を去ることになりました。ですが、彼の残した作品は、今永遠の命を与えられて私達の手にあります。これら珠玉の作品を鑑賞できる幸福と、鉄の意志で製作を続けたドライヤーに深く感謝しなければならないでしょう。

ところで、ドライヤーの影響を如実に受けた映画監督が1人います。おわかりですかね。同じデンマーク出身のラース・フォン・トリアー Lars von Trierです。彼は、ドライヤーが残した「メディア Medea」の脚本を元に、テレビムービー「メディア Medea」を1988年に製作しています。


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