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zoom RSS ソレルさんと探索する文豪の旅―「文豪の真実 Literary Lives」Part2

<<   作成日時 : 2016/07/06 12:08   >>

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最強のモラリスト、エドワード・ソレル氏の次なる犠牲者(笑)は、W.B.イェイツ、リリアン・ヘルマン、カール・グスタフ・ユングです。


【W.B.イェイツ William Butler Yeats】

1888年。ウィリアム・バトラー・イェイツは、既にアイルランドを代表する詩人になっていた。ケルト伝説の色濃く残る町で、母の実家のあったスライゴーで過ごすことの多かったイェイツは、ここで何度も妖精を見ている。長じて、彼が超常現象の信奉者になったとしても驚きはない。22歳の時初めて参加した降霊会では、興奮のあまり自らテーブルに頭を叩きつけ、ミルトンの詩句の一遍を吟じていたという。
1916年。アイルランド独立運動の指導者でもあった才色兼備の美女、モード・ゴンに求婚するも玉砕。イェイツ、25年間もねばったがついに諦め、モードの娘イスールトに狙いを変更する。このとき既にイェイツは51歳でアイルランドのヒーローでもあったが、イスールトは彼の求婚を断ってしまう。
1917年。しかしながら、占星術のお告げによるとイェイツはこの年に結婚せねばならない。イスールトに求婚を拒否されてわずか5週間後、アメリカの資産家の娘ジョージー・ハイド=リースとロンドンで地味婚を挙げる。2人共に交霊現象を信じている、いわば“お仲間”。新婦は25歳、新郎は52歳であった。
いまだイスールトへの恋慕を断ち切れないイェイツに、ジョージーは得意の自動筆記能力で、霊界からのメッセージを伝える。イェイツは、新妻の励ましに鬱もインポテンツも忘れる喜びようであった。ジョージーの自動筆記を、イェイツが霊感で翻訳する。こうした彼らの共同作業は、「月の優しい沈黙のときに」という神秘哲学書に結実する。
1923年には、イェイツはアイルランド自由国の上院議員となる。生まれて初めての定職であったが、これを1928年に辞するまでの間、彼は傑作戯曲の何篇かを上梓し、詩作への再評価の気運も高まってついにノーベル文学賞を受賞した。
1933年。アイルランド自由国の苦難に失望し、ムッソリーニに心酔する。アイルランドのファシズムの巣窟、青シャツ党にテーマ曲を提供までする。“我らの苦難に唯一終焉をもたらす教育ある者による専制政治を!”
1934年。ヴェニスに赴き、猿の生殖腺を移植するというスタインナッハ手術を受けた。インポ回復のためである。人々は「フォード車にキャデラックのエンジンを積むらしい」と噂しあう。
1936年、「オックスフォード現代詩撰」編纂。エズラ・パウンド、W・H・オーデンといった詩人に混じり、愛人マーゴット・ラドックの作品を堂々と入れる臆面のなさ。
1939年。フランスのマントンで死去。ジョージーと、晩年の親友ドロシー・ウェルズリー夫人、幼い頃見たケルトの妖精たちが、彼の魂を天界へいざなった。

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“The Lake Isle of Innisfree”

I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made;
Nine bean-rows will I have there, a hive for the honey-bee,
And live alone in the bee-loud glade.
And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight's all a glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet's wings.
I will arise and go now, for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or one the pavements grey,
I hear it in the deep core of the heart.
―“イニスフリーの湖島”「薔薇 イェイツ詩集」より

いざ立ち上がり、イニスフリーに行こう
そしてささやかな小屋を、土の小屋を建てよう
そこには九条の豆が生り、蜜蜂の巣箱がある
蜂の騒がしい羽音のみを友に、渓谷に住まう
きっとそこには真の安寧があり
心の平穏は、朝のとばりからコオロギの歌う小屋に訪れよう
きっと夜はおぼろげな光が覆い、昼は太陽の光が瞬き
夕暮れには小鳥の羽ばたきが頬を撫でる
今こそ帰ろう
昼も夜も、湖畔に寄せてはかえすあのさざなみの音が私を包むだろう
都会の塵にまみれた街道に、薄汚れた道路に佇んでいても
私の心の奥に、あのさざなみの音がこだまする


詩人として、劇作家として、はたまたアイルランドを代表する有名人として、イェイツの名声は留まるところを知らない。そんな彼の詩の中でも特によく知られた “イニスフリーの湖島”を、私の駄訳で挙げてみた。原文をご覧になってくれればわかるように、イェイツの詩の特徴は、その簡素で平易な表現の中にあふれんばかりの情感を込める点にあると思っている。この作品にしても、都会で暮らす“私”が日々の喧騒の中ふと立ち止まり、ふるさとのイニスフリーの緑濃い情景を脳裏に思い浮かべている様が、容易に想像できるだろう。胸が苦しくなるほどの望郷の想いが、平和な昔へのあこがれの想いが、リズミカルでシンプルな言葉の内から迸っているようだ。抑えた表現の中に幾重もの情感を忍ばせる手法は、日本の短歌や俳句に通ずるものがある。日本の文学者の中に、イェイツを愛する者が多いのも頷ける話だ。
イェイツは、ケルト文学の復古運動の先頭に立つ人物であった。ケルト特有の神秘主義、メランコリアは、彼があらゆる作品に反映してきた精神である。そうした彼の精神の土壌は、幼い頃から親しんだケルトの伝統から発展して、神秘哲学へ深く傾倒したことで培われたのだろう。そして、生命の躍動を伝える緒作品を生んだ原動力の秘密は、その生涯を通じて彼が忠実たらんとした(笑)性欲であることも明らかだ。カクテル“モンキー・グランド”は、スタインナッハ手術を受けるなど、涙ぐましい努力を重ねたイェイツに捧げられたものだ。この章の中では、猿の生殖腺に命運を託したイェイツに、痛烈なイヤミを投げかけるくだりが印象に残る。


【リリアン・ヘルマン Lillian Florence Hellman】

1930年、リリアン・ヘルマンは25歳。MGMでリーダーとして働く仕事に就く。巨大な鷲鼻が顔の半分を覆い尽くすような彼女、お世辞にも美人とは言い難い。だが、ハリウッドのレストランで出会った、ハンサムで超売れっ子、ついでに女たらしの作家ダシール・ハメットとは、あっという間にねんごろになる。売れない脚本家であった夫を捨て、リリアンは翌年ハメットと共にニューヨークへ移った。
1934年。ブロードウェイの大物プロデューサーでもあるハーマン・シュムリンとの出会いが彼女を変えた。自分の戯曲を書き始め、初めて舞台にのせた作品「子供たちの時間」は、大評判を呼ぶ。彼女はたちまちアメリカ期待の劇作家になったのだ。
1938年。ハリウッドでシナリオを執筆していたリリアンは、ニューヨークに向かう飛行機の中で、「フォーチュン」誌の編集長ラルフ・インガソルと出会う。飛行機のトラブルでアルバカーキに足止めを食らった2人は熱い夜を過ごし、インガソルは翌日妻に離婚を切り出す決意を固める。ハリウッドにはハメット、ニューヨークにはインガソルという愛人を囲うことになったリリアン。三角関係…いや彼女の夫を含めれば四角関係は、やはりあっという間に破綻。ハメットの病気が回復するや、彼女は四角関係を整理しようと3人の男を呼び寄せた。派手に怒鳴りあった挙句、インガソルが戦線から脱落した模様。
1939年。リリアンの新作舞台「小狐たち」が幕を開けたが、当時ソ連の侵攻に悩まされていたフィンランドへの慈善公演が企画されると、彼女はあからさまにこの計画に反対の意思を表明する。それもそのはず、彼女はスターリン崇拝者であったからだ。
1941年。独裁者スターリンによる恐怖政治、血の大粛清時代がソ連を支配していた。しかしリリアンは、ソ連という社会主義国家を唯一のユートピアと信じて疑わない。ヒットラーのロシア侵攻の際には、取り乱して友人宅へ駆け込んだ。「我らが祖国が侵略された!」
1952年。隠れコミュニストを血祭りにあげろ!マッカーシーが扇動する“赤狩り”の影が、アメリカ中にのしかかっていた。下院非米活動委員会に召喚されたリリアンは、多くの仲間が圧力に屈して友の名前を売っているのを尻目に、憲法第5条に明言されるところの黙秘権を行使する。元来攻撃的で、気性の激しい彼女ではあったが、ヒステリカルな時代の嵐が過ぎ去るのを、ただじっと耐えるしかなかった。だが、黙して語らぬことで彼女は己の良心を守り、魔女狩りに昂然と立ち向かったともいえる。アメリカを脱出した者もいれば、“裏切り者”も続出する混沌とした社会の中、彼女は1人気を吐き、たまたまレストランで見かけた裏切り者エイブ・バローズにもつばを吐きかけた。その場にエリア・カザンがいなくて幸いであったろう。
1984年。自伝「未完の女」に書いた内容を巡り、事実無根であると訴えられたリリアンであったが、同年彼女は亡くなる。彼女の遺した戯曲は6編、映画化された回数は9回。作品の数そのものは多くはないが、名匠ウィリアム・ワイラー監督との仕事でも高評価を勝ち取り、晩年はたいした資産家になっていたという。その上、本来遺族に渡すべきハメットの著作の印税までもせしめていた。誠実、謙虚、高潔を叫んだ女傑の最期は、法廷で親友にまで罵られる侘しいもの。そんな彼女を哀れんだか、天界へ旅立つリリアンの傍には、スターリンの魂が付き添っていたという。

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「子供の時間 The Children's Hour」(1934年)

この傑作戯曲は、ウィリアム・ワイラー William Wyler監督のメガホンによって2度映画化された。「この三人 These Three」(1936年)と「噂の二人 The Children's Hour」(1961年)である。同性愛に対する世間の非寛容をシニカルに、しかし情熱的に訴える内容は、発表当時原作同様おおいに物議をかもした。だが私はこの作品が好きだ。なにより、ヘルマン女史の不屈の精神を根底に感じるから。と同時に、アメリカ国内ではやはりマイノリティーであったワイラー監督の、無言のメッセージも伝わってくる。
ヘルマン女史は、私にとってはヒーローだ。畏怖すべき劇作家、尊敬すべき脚本家。男社会のハリウッドや演劇界で、その才能1つで名作をモノにし、歴史に名を刻み、また赤狩りに屈しなかった鉄の女でもあるのだ。彼女こそ、真に自立した“現代的女性像”を確立したロールモデルであろう。
しかしソレル氏の手にかかれば、女傑ヘルマンもピントのずれた“勘違い女”であり、ケチで傲慢なナルシストに変貌してしまう…。昔、一杯の掛けそばを家族で分け合ったという美談を小説に仕立て、日本中の人々の涙を搾り取った作家がいた。彼はその後いくつかのスキャンダルを露呈し、あっという間に“傷物”のレッテルを貼られて人々の記憶から消え去った。優れた作品を創造したり、また高潔な行動を世に示した人間であっても、その本質までが高潔であるとは限らないという教訓が、ヘルマン女史やこの作家から得られるのではないか。確かに、女史の人生にもいくつかの汚点がある。

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いや、それにしても。天下のハメットを30年以上にも渡って手玉に取ったとはね。女史の男性関係は知っていたが、まさか二股かけていたとは(笑)。これではサム・スペードも形無しだな。女史の写真を掲載してみたので、とくとご覧あれ。ソレル氏が誇張するほどでないにしろ、いささか横に広がり気味の鷲鼻といい、美人の基準からはかなり遠いご面相だ。しかし、才能と自信と固い意志さえあれば、その信条がどうあれ、また実像がどうあれ、偉大な男たちを意のままに振り回せるのである。これは如何ともしがたい事実だ。


【カール・グスタフ・ユング Carl Gustav Jung】

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1907年。痴呆についての書物を著したスイス人ユングは、精神分析学の大胆な開拓者であるジークムント・フロイトと面会した。彼らは初対面ながら数多くの面で意見の一致を見、フロイトはユングをして自身の学説の息子であり継承者であると認めたという。フロイトのエディプス・コンプレックス論などの学説は、そのあまりの斬新さと、またフロイトがユダヤ人であったことが原因で学会で無視されていたのだ。

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1908年。ユングは一夫多妻制を称賛し、なおかつ実践する人生哲学を確立。患者とも平気で性的関係を結ぶ破廉恥さだ。
1911年。当時精神分析学は、まだまだ未開の分野であった。その先駆者となったフロイトがたまたまユダヤ人であったために、不当な差別を受ける羽目になってもいたのだ。フロイトはこの状況を打開するため、キリスト教徒でアーリア人のユングを精神分析学会会長に推す。しかしながら、精神分析学におけるこの“親子” は、1年もたたぬ間に鋭く対立するようになる。フロイトがあくまでも臨床的に自然科学的に精神分析を捉えるのに対し、ユングは精神分析の理論を文化・宗教哲学的フィルターでろ過していた。これが最終的に、ユングのアーリア人種優越論を生み出すことになったのだ。フロイトはユングのこういった思想を嫌悪したが、残念なことにナチスを興すヒトラーはそうは考えなかった。
1913年。ユングは心霊主義にまで目覚め、自分を人類、とりわけ女性の救済者である“アーリア人のキリスト”とみなすようになる。光と闇、精神と物質、男性と女性…世界中のものを二項対立で淘汰してゆくこの思想は、極めて危険な極論を容易に導き出す。
1917年。「集合的無意識」出版。個人的な事情よりも、祖先から受け継いだ資質が優先されると断言するこの書物は、アーリア人のDNAがいかに優れていてユダヤ人のそれがいかに下等であるか、一種の狂信的な思想に満ち溢れていた。かくして、ヒットラーはドイツに台頭し、フロイトはウィーンからロンドンへ亡命することになる。
1933年。精神分析学会からユダヤ人が駆逐され、ユングが会長に収まる。ユダヤ人は、アーリア人と区別するため、アーリア人とは異なる衣服を着よ。これがユング会長の提案であった。
1937年。精神分析学会に籍を置いていたウラジミール・ローゼンバームが、ナチスによって強制収容所に放り込まれた。奇跡的に釈放され、精神分析学者御用達のクラブへ赴くと、ユングは門前に立ちはだかりいまいましげに吐き捨てた。「お前は死すべきだ」と。
1945年。第2次世界大戦は、アーリア人種優位を唱えたナチスが敗北して終結する。さあ大変だ。これまで大威張りでアーリア人のキリストを名乗っていたユングは、立場が一転。脂汗を流しつつ口角泡飛ばして、親ナチであったことを否定してまわる。「私は精神療法を守っただけ」「私が親ナチ?とんでもない!フロイトのバカ野郎が言いふらした噂だ」

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1961年。戦後、命からがら親ナチの烙印から逃れたユング。後半生は執筆、講演、旅行に明け暮れる。愛人をとっかえひっかえやりたい放題。ユング翁、今度は自身をゲルマンの神ヴォータンになぞらえた。そして86歳で、素っ裸の見目麗しいゲルマンの乙女達に誘われながら、天国へ旅立った。彼の墓碑銘には、“現代人の自己認識を覚醒せしめた指導者”と刻まれた。




「フロイト=ユンク往復書簡(上)(下) Sigmund Freud / C.G. Jung Briefwechsel」

ユングはフロイトと並び、精神分析学の基礎を築いた人物である。偉い人なんである。しかもヒットラーより14歳も年上だ。過酷な時代を生き残るために必死だったのだろう。それはわかる。だが私自身は、彼の独善的な理論に困惑することはあっても、あまり共感を覚えることはない。それ以前に、「自我と無意識」などの精神分析手引書も難解に過ぎ、私の稚拙な脳細胞では“分析”不可能だ。カルトやら心霊現象やらを持ち出されてきたひにゃ、もうお手上げ。

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ところが、この師匠フロイトと弟子ユングの間で交わされた書簡集は、かなり興味をそそる。現代精神分析学の方法論を確立するため苦闘する両者は、多くの部分で共鳴することはあっても、おそらく学問へのアプローチの仕方が根本的に異なっていたのだろう。人種的なDNAのせいだと言ってしまえばそれまでだが、あまり関係ないようにも思う。この2人の言葉のやり取りを拾っていくと、学者としての資質がまるっきり異なることが明らかになってくるのだ。また、人間性の違い。彼らは、“精神分析学”という接着剤で背中同士をくっつけられ、互いに正反対の方角を向いてしまった双子のようなものだ。
偉い文学者や学者先生の私生活を覗くと、意外にだらしないというのか、積極的にトンデいる方が多い。映画にもなったあのキンゼイ博士も、自身の学説を実証するため、自ら危険な愛のカタチに飛び込んでいった。とにかく、文学者、学者という人種を見るにつけ、やはり彼らは人間の業に直接触れるタイプの人間であるのだなと思う。彼らは文章で、あるいは詩で、理論で、人間の本質を表現しようとするのだ。

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このフロイトとユングの、短くも精神分析学史上最も重要な史実でもある交流と対立を描いた映画「危険なメソッド A Dangerous Method」はDVDで見ることができる。映画のベースになった作品はクリストファー・ハンプトン Christopher Hamptonによる戯曲「Talking Cure」で、ユングとユングの患者であったザビーナ・シュピールラインとの捻じれた愛憎関係が核になっている。メガホンはうちの師匠ことデヴィッド・クローネンバーグ David Cronenbergがとり、ユングにはマイケル・ファスベンダー Michael Fassbender、フロイトにはヴィゴ・モーテンセン Viggo Mortensenが扮した。ユングの歴史の中で今まで知られていなかった存在であるザビーナ・シュピールラインに、今作ではじめてスポットライトが当てられたのだが、初登場シーンからして絶叫しながらの狂乱演技が恐ろしかったキーラ・ナイトレイ Keira Knightleyが彼女を演じた。ザビーナはユングの長い人生の中でも特殊な位置を占める女性であり、おそらくは映画が描いたように、彼の全生涯を影のように覆っていたに違いない。私たちはそんな女性を“運命の女”と呼ぶ。

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