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zoom RSS 全ての人々にとっての物語―「ハーヴェイ・ミルク The Times of Harvey Milk」

<<   作成日時 : 2016/07/16 11:32   >>

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2009年6月26日、ついにこのドキュメンタリーのDVD再発が決定いたしました。ハーヴェイ・ミルクの物語を、少しでも多くの人たちに知っておいてほしいと願い、ここに記事を再掲しておきます。後年、ショーン・ペンがミルクを演じる劇映画「ミルク Milk」(ガス・ヴァン・サント Gus Van Sant監督)も製作され、ペンが2度目のオスカーを受賞するなど注目が集まりましたが、やはり劇映画用に脚色されたお話では伝えきれないものがあるのではと感じました。実在の人物、しかも劇的な生涯を送った人間は、その生き様がとかくドラマティックに捉えられがちです。もちろん、“劇映画”として面白くなければならないのは鉄則ですから、事実の部分的脚色は仕方がないと思いまう。しかし、主軸のテーマを別の激しい感情に摩り替えてしまっては元も子もない。
これからご紹介するドキュメンタリーに出演して、ミルクの時代の空気を“証言”した人たちの一部は、劇映画「ミルク Milk」にも登場しました。ミルクが生き、死んだ時代に比べ、今の状況はどう変わったのかに思いを馳せる時、この二つの作品を観比べてみて、虚空を見つめるようなほろ苦さを覚えたのは、きっと私だけではないでしょう。

"I know that you can’t live on hope alone, but without it, life is not worth living." -- Harvey Milk

「ハーヴェイ・ミルク The Times of Harvey Milk」(1984年製作)
監督:ロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセン
製作:ロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセン&デヴィッド・ロクストン
ナレーション脚本:ジュディス・コバーン&カーター・ウィルソン
撮影:フランシス・リード
音楽:マーク・アイシャム
出演:ハーヴェイ・フィアーステイン(ナレーション)
ハーヴェイ・ミルク
アン・クローネンバーグ
トリー・ハートマン
トム・アミアーノ
ジム・エリオット
ヘンリー・ダー
ジーニン・ヨーマンズ
ビル・クラウス
サリー・ギアハート
ハリー・ブリット委員
ジョージ・マスコーニ市長
ダン・ホワイト委員

臨時に市長代行に任命されたダイアン・ファインスタインは、混乱する市庁舎前から衝撃的な事実を発表した。カリフォルニア市のジョージ・マスコーニ市長とハーヴェイ・ミルク市政執行委員が暗殺されたのだ。容疑者は同じ市政執行委員のダン・ホワイト委員。1978年11月27日のことであった。“マイノリティの自由”が死んだ日である。
ミルク委員の在職期間はわずか11ヶ月であったが、彼はすでにその役職を超越した存在であった。ゲイであることをカムアウトした人間として初めて政治に深く関わった活動家であり、同性愛者のみならずマイノリティ全般のために戦い続けた運動家であったからだ。

ハーヴェイの補佐官を務めたアン・クローネンバーグは、サンフランシスコに移ってきて1年半ほど経ったとき、ハーヴェイの経営するカメラ屋で初めて彼に出会った。最初の出会いは最悪。彼は非常に荒れていて変な男だという印象しかなかったという。
ハーヴェイの政治顧問であったトリー・ハートマンが彼と知り合ったのは1975年のこと。彼女は流産して心身ともに参っていた。自宅に引きこもっていた彼女を見舞ったのがさほど親しくもなかったハーヴェイだったというわけ。
教師のトム・アミアーノによると、ハーヴェイは多面的でユーモアの感覚が優れていたという。どんなに深刻になっている人でも、そのユーモアで気持ちをやわらげることができた。ゲイであることを隠して苦しんでいる人にも等しく接し、その苦しみから救ってくれたのだ。

そんなハーヴェイは、1930年5月22日にユダヤ人の中流家庭に生まれ育った。目と耳の大きな少年はごく平凡な青春時代を送り、冗談好きなごく普通の青年に成長した。大学卒業後は海軍に入隊し、除隊後ウォール街の証券アナリストに転身。彼は自身の同性愛嗜好を14歳の頃から自覚してはいたが、周囲には秘密にしていたという。ところが1960年代に入ると、ヒッピー文化に強い影響を受け、前衛劇団のプロデュースを手がけたり、ブロードウェィで舞台製作の仕事に就いた。1970年代初頭には反戦デモに参加、心機一転、サンフランシスコに移住したのだ。恋人であったスコットと共に、カストロ・ストリートにカメラ屋を開店経営。ゲイの多く住むここでハーヴェイは住民運動に専念していき、たちまち支持を集めると、カストロ・ストリートの世話役となっていった。そして 1973年彼は初めてサンフランシスコ市政執行委員選挙に出馬する。彼を知る人々は、それも彼一流のジョークだと思っていたようだが、本人は真剣だった。

ごく普通の自動車工であるジム・エリオットの述懐。ジムがハーヴェイのことを知ったのは、労働者協議会のときであった。どの候補者を支持すべきか、他の組合の代表者たちと話し合っている最中のこと。結論はハーヴェイ支持であったが、誰かから彼がゲイだということを聞かされ、ジムはひどく落胆したのだという。労働者の世界も落ちたのもだと。しかし彼はその認識をすぐ撤回せざるを得なくなる。ハーヴェイがゲイバーから、クアーズを締め出すことに成功したからだ。全米中でボイコット運動が起こっていたというのに、サンフランシスコの労働者街でだけはできなかったことだ。
中国人雇用平等促進会理事長を務める、マイノリティの運動家ヘンリー・ダー氏は語る。彼は運動家としてのハーヴェイをよく知ってはいたが、第一印象はやはりアンと同様奇妙なものだったそうだ。なぜならハーヴェイは、全人類の調和などというナンセンスな理想を大真面目に掲げていたからだ。マイノリティの現状を知るヘンリーに言わせれば、「そりゃ不可能だ」。

1973年から76年にかけて、ハーヴェイは市政執行委員に立候補し続けたが、3回とも落選した。だが回を重ねるごとに彼は票を増やしていき、彼の住む地区や、ゲイ・コミュニティのなくてはならない相談役になっていった。1975年、彼は心強い味方を得る。新しく市長となったジョージ・マスコーニだ。マスコーニ市長は、市の総合的発展という大きな目標を掲げ、すべてのマイノリティの住まう地区、その文化、少数派民族グループにも充分な敬意を示したのだ。

マスコーニ市長の述懐。彼の父親はサンクエンティン刑務所の看守であったが、子供の頃聞かされた電気椅子の使用目的が信じられなかったという。自由の国アメリカで、暴力を取り締まる唯一の方法が人殺しであり、それを政治も認めているのだから。
彼はハーヴェイを含む協力者とともに、住民の手による市の運営計画を実現するべく動き始めた。市をいくつかの地区に分け、各地区ごとに市政委員を選出する、地区別選挙を実行したのである。

ジム・エリオットの述懐。政治制度を根本から変えるというクレイジーな案であった。ハーヴェイと同じ地区である彼は、ハーヴェイの小汚い店の裏でこれからの方針を話し合ったが、そこにはヒッピー風の得体の知れない連中がたむろしていたという。ゲイではないジムにとっては気の滅入る出来事であった。だがハーヴェイは感情的になる人々をうまく御し、うまく一つの集団にまとめ上げていた。

サンフランシスコの有権者達は、地区別選挙の試行を決定。カストロ地区でも新しい政治が始まる。マイノリティに初めて代弁者が得られるかもしれない。カストロ地区の人々は沸き立った。心地よいゲイライフを目指して、多くの男女がカストロ地区に集まってきた。カストロ地区は、ゲイやレズビアンの人々にとっての聖域として一躍有名になったのだ。毎年夏に行われるカストロ祭を、ハーヴェイは積極的に後援した。マイノリティにとっての重要なお祭りだったからだ。街角で同性同士がおおっぴらに抱き合っていても、ここでは奇異な視線に晒されることはない。ハーヴェイは時機が熟したと判断する。1977年、彼は実に4回目となる市政執行委員への立候補を決意した。新しく定められた第5地区からの出馬である。候補者は彼を含め7人もいた。中でも有力な候補者は3人。民主党の後押しを受けた弁護士ホリナン、もう1人は昔からカストロ地区に住むゲイのストークス、そしてハーヴェイだ。皆それぞれに自信を持っていたが、選挙の行方を決めるのは浮動票である。

アン・クローネンバーグの述懐。彼が立候補を決めたとき、彼女に電話してきて選挙運動の手伝いをするよう要請してきたそうだ。彼女は選挙のことなどなにも知らなかったが、ボランティアで彼のために働いた。もっとも、彼は時折ひどく気分屋になることもあったのだが。
トリー・ハートマンの述懐。彼女にとっても、この選挙運動は本当に変わっていたという。事務所には妙な人々がひしめき合い、補佐官アンはみるからにレズビアンのパンク娘だし、“蓮の花”たるお上品なマイケルがシナを作り、印刷を担当している老婦人がいて…。正直、大丈夫なのかと不安がよぎることもあったそうだが、とにかく全てハーヴェイのカメラ屋で自力で行ったのだ。ハーヴェイの人柄に惹かれ、ボランティアには11歳の娘から70歳の女性まで、雑多な人々が集まってきてくれた。皆社会の脇に押しやられたマイノリティたちだった。ハーヴェイは、選挙演説から戸別訪問まで全てを自分で行ったという。そして47歳のとき、4度目の正直で彼はついに市政執行委員に当選した。

アン・クローネンバーグの述懐。ハーヴェイが当選すると、誰もが皆興奮の渦に包まれた。彼は彼女のバイクにまたがり取り囲む人々の間を走りまわった。彼の当選には、今まで政治的に抹殺されてきた存在であるゲイ、レズビアン、マイノリティの人々が代弁者を得たという重要な意味合いがあったのだ。人々の喜びようは尋常ではなかった。もちろんハーヴェイ自身も。この日ばかりは、彼はシャンペンを頭からかぶって盛大にお祝いしたという。
当時のニュース映像では、お祭り騒ぎになるカストロ地区の模様を映し出していた。ハーヴェイはマイクに向かって宣言する。「私の使命は市のあらゆる問題を改善することです。全市民のために働きますよ」

テレビレポーターのジーニン・ヨーマンズは語る。彼女は立候補したハーヴェイを取材したとき、初めて彼に相対したという。当初は、カストロのカメラ屋のオヤジに政治が分かるのかと、偏見を抱いていた。だが実際に会ったハーヴェイにその先入観を見透かされ、予想よりもはるかにパワフルな印象を持つと、彼女もまた彼の魅力の礼賛者となっていたのだ。

サンフランシスコ市政にこれほどバラエティに富んだ委員が着任したのも、初めてのことだった。ゲイの代弁者ハーヴェイ、初の女権擁護者であるシルバー、初の中国系米国人ラウ、初の黒人女性ハッチ、消防署を退職した白人男性ホワイト。ところが委員長を選出する段になって早くも議論が噴出することになる。ラウとファインスタイン女史の間で票が割れ、ハーヴェイとシルバーがあくまでファインスタインに反対を唱えたからである。

ヘンリー・ダーの述懐。この小競り合いは、彼の目にはハーヴェイが余計な諍いの種をまいていると映った。だがハーヴェイは本気で改革を断言したのだ。保守多数派の委員とは違った。

一方、ハーヴェイとは正反対のタイプであるダン・ホワイト委員は、31年間南東地区に住むという根っからの土地っ子だった。彼は典型的な白人の中産階級の人間で、清潔感にあふれ老人を敬い庶民的。昔ながらの古い価値観がこの社会を作ったのだと信じていた。ホワイトとハーヴェイは、共に新制度の象徴となったのである。ハーヴェイは市庁舎に新風を吹き込む存在として、後援者たちを満足させた。

トリー・ハートマンによると、ハーヴェイは当時のカーター大統領に会いたがったそうだ。大統領の妹ルースは宣教師シスター、がちがちのクリスチャンだ。ハーヴェイが大統領に謁見することは叶わなかったが、その妹ルースと初めて握手したとき、彼は彼女にこう応酬したという。
「あなたがナニを触ったかわからない私の手を握ってくださるなんて!」
ゲイの活動家ビル・クラウスの述懐。ゲイの活動家にとって、ハーヴェイが委員に当選するまでは市庁舎は遠い存在だった。彼らが陳情に行っても冷たくあしらわれるだけであったし、それまでの委員には個人的な悩みなど口が裂けても言えない雰囲気であったからだ。でもハーヴェイが全ての状況を変えてくれた。

ハーヴェイへのインタビュー。特権階級と呼ばれる人たち―白人、権力者、ノン・ゲイ、金持ち階級―誰も、私の意見を無視できない。これはとても重要なことだ。サンフランシスコ内では、黒人や黄色人種が対立を繰り返し、ゲイは憎まれている。でも自分の当選のおかげで、マイノリティ間の調和が取れつつあるのだ。市全体のレベルで少数派、少数民族、ゲイ、フェミニスト達が結束しなければ。そして一般組合員の結束も。これらが強力な連帯を作れば、市政になにがしかの影響を与えることができる。そしてそのための政治的手腕も、彼は持っていたといえる。家賃問題、開発制限、交通機関問題、老人問題…市に問題は山積みなのだ。

ジム・エリオットの述懐。彼はハーヴェイの意見には全て共感を寄せていた。ハーヴェイは常に住民の立場から、公園や学校の問題、警察の権力行使問題に至るまで、全ての問題に対処するという姿勢を崩さなかったから。全てのマイノリティ―障害者や老人を含めて―のために戦ったのだ。人々はますますハーヴェイの話に耳を傾けるようになり、彼に様々な相談を持ちかけるようになった。ゲイかどうかは最早関係なかった。
ヘンリー・ダーの述懐。ハーヴェイは、投票機を導入すれば、英語をしゃべれないことで差別を受けている市民が楽に投票して政治に参加できるチャンスを得られると声高に主張したそうだ。彼は市庁舎で反対意見の委員と徹底的にやりあった。投票機が中国人コミュニティにとっても必要不可欠なものであることを知っていたのだ。
だがハーヴェイが最も心を砕いたのは、市のゲイ条例である。その最大の目的は、ゲイだとカムアウトした人々が失職することを防ぐこと。例えば、毎年行われるゲイ・デイ・パレードには医師30人が参加するが、本当ならクビを恐れて隠れているゲイの医師はもっと大勢いるはずなのだ。
だがホワイトは、これに猛反対を唱えた。では教師の資格をもつ服装倒錯者を、学校側はどう扱えばよいのだと。結局委員の中で彼だけがこの条例に反対する形になった。
市長は条例の施行に賛成したが、アン・クローネンバーグによると、それ以来事務所には嫌がらせの電話や手紙が絶えなかったという。ハーヴェイがゲイ・デイ・パレードで車の上に座ったときには、彼が暗殺される心配までしたという。しかし彼はパレードの先頭に立ち、全米中から集まった40万人の同性愛者達の行進を率いた。きらびやかで華やかなパレードには、カムアウトする勇気を持とうというメッセージが掲げられていたのだ。
しかしその日の新聞には、ホワイト委員が“ゲイの日”に嫌悪感を示しているという談話が掲載された。彼はインタビューで、裸の男女が町を練り歩いていたことに嫌悪感を露にした。それを受けて、急進的なベイタマ神父が、信者の前で公然とゲイ・パレードを批判する姿がテレビに映された。「下品で不愉快な彼らに市民権など一切与えてはならない、あなたの子供達が同性愛者たちに狙われているのだ!」
1977年から78年の間、ゲイ権利法は全米で撤回された。しかもカリフォルニアでは、ブリッグズ議員が提案6号と呼ばれる条例案を州民投票にかけた。それは、同性愛の教師を全ての学校から締め出すという封建的な条例であった。表向きは、子供達の両親の権利を守るため。暴力的な人間や売春婦はだめなのに、同性愛者だけが教師の資格を得るのを許されるのは違法だというわけだ。同性愛の問題を家庭に持ち込んで、それを潰そうとする議員の方針を受け、ハーヴェイはそれに反対するべく全米に向けて論陣を張った。
彼は言う。彼自身異性愛者に囲まれて育ったし、テレビも新聞も全ての情報は異性愛に向けて発信されるものだ。そして同性愛は違法だとさげすむ社会が出来上がった。でも彼は同性愛者だ。もし教師が子供の人生のお手本になるのなら、街中に尼さんがあふれているはず。

言語理論教授のサリー・ギアハートの述懐。ハーヴェイはブリッグス提案を潰すため、ある程度の資金を欲していた。そのための基金を設立し、サリーはハーヴェイと共に共同議長になった。論争が激化する中、彼らはお互いを深く理解しあえるようになったという。2人でブリッグズ議員に立ち向かうため、テレビの討論番組にも出演した。その際には着る服装にまで気を使い、保守的なアメリカ人の反感を買わないようにしたのだ。同性愛差別の根拠が人類の95%はヘテロだということしかないブリッグズを、2人は科学的な数字を引き合いに出して徹底的にやりこめた。だがこの論争は、異なる価値観の衝突というよりは、2つの恐怖のぶつかり合いだったといっていい。ゲイは道徳的多数派に生活を脅かされる恐怖を感じ、ヘテロを主とする根本主義者―一定の社会的構成や性別の役割を信じ、男女が関係すべき道を信じ、家族の神話を信じ、神を信じて生きて来た者―は変質者によって今まで信じてきた観念を覆される恐怖を感じていた。つまり、この論争が明らかにしたことは、根本主義に根ざして作られたアメリカの仕組みが、ゲイによって攻撃されているということであったのだ。
提案6号の意義を問う州民投票を前に、ゲイ・コミュニティの人々は街角でビラ配りをしたり、戸別訪問して住民の理解を求めるなど、地道な草の根運動を展開した。ハーヴェイは、ドイツで起こったような差別の悲劇を繰り返してはならないと説いた。
だがゲイの教師の問題は微妙だ。トム・アミアーノが言うように、子供達の親に向かって私はゲイではありませんと弁明するのは、実際不可能だからだ。親は子供のことになると頭に血が上る。親の泣き所と同性愛問題をたくみに結びつけた、ブリッグズの作戦勝ちである。同性愛を隠してこそこそ生きるのか、それともカムアウトして戦うのか、人々に決断が迫られている。ハーヴェイは群集を前に熱弁を振るった。「カーター大統領よ聞いてくれ、人権擁護者として世界のリーダーになりたいのなら、1500万人のゲイとレズビアンに答えてくれ。提案6号は却下すると!」
運動は功を奏し、提案反対に名を連ねる著名人の中には、ロナルド・レーガン元知事まで含まれるようになった。そしてカーター大統領も、提案6号に反対票を入れるよう支持者の前で演説した。
そして1978年11月7日、運命の投票の結果、提案6号は否決された。その夜、マスコーニ市長とハーヴェイはカストロ地区の祝賀会に出席した。このときハーヴェイの政治力、影響力は絶頂期にあった。

サリー・ギアハートも、その夜のことは昨日のことのように喜びと興奮と共に思い出すことが出来る。ゲイの男女にとって最高の夜となったのだ。この勝利は、ゲイのために旗印を掲げ戦い続けたハーヴェイのおかげだった。今にも崩れそうなゲイ・コミュニティの土台を叩きなおし、そこにものすごい歓声を呼び込んでくれた。
「多くの人々のおかげで提案6号を否決できたが、まだ安心は出来ない。教育キャンペーンは今後も続けられなくてはならない。社会通念を打破しなければならない。声を上げ続けなければ。そして最も大切なのは、カムアウトすることだ。誇りを持って周囲の人たちにゲイだと伝えるべきだ。仲間はどこにでもいることがわかるだろう。デタラメな社会通念は一掃されるのだ!」
その興奮を伝える新聞には、ただ一言、“やった!”とだけ大きな見出しが踊っていた。

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この投票の4日後、ホワイトが唐突に執行委員を辞した。委員は安月給だが、新しく事業も始め、子供までできていたというのに。彼は、理想主義者として市庁舎に入ったものの、ハーヴェイとは違って仕事に不満を感じていたのだ。潔癖であるが故に、庁内にはびこるゴマすりや妥協の雰囲気に耐えられなかったのである。
マスコーニ市長はホワイトの後任探しを始めた。ニュース速報は、ホワイトの選挙区の後援者が彼の辞職に驚く様を映し出す。なんの相談もなく、公約を何一つ実行できないまま辞めた彼に怒りを抱く者さえいた。しかしその数日後、当のホワイトが委員への復帰を希望していることが伝えられる。前言を撤回した彼の言い分はこうだ。10ヶ月で辞めてしまっては意味がない、委員を続けるようにとの地元の声援があったからだと。
しかし辞職の撤回は不可能だ。新委員の選出は市長の判断にかかっている。ハーヴェイはホワイトの再任に猛反対した。「彼は曖昧であてにならない」と。他の委員も同意見ではあったのだが、個人的な恨みを買うことを恐れて口出ししなかったのだ。それをあえて言葉にしたハーヴェイの勇気は称えられていい。
苦悶の末マスコーニ市長は、ホワイト個人の体裁よりも、彼の選挙区第8区の人々の利益を優先する判断を示した。だがそのときガイアナで、900人もの集団自殺事件が起こった。その多くがサンフランシスコ市民であったことがわかり、市内は騒然となる。実際ダン・ホワイト議員再任問題は棚上げされ、11月27日に市長が発表した新委員もホワイトではなかったのだ。

サンフランシスコで起こった別の悲劇を伝えるニュース映像。
警察の車が市庁舎前を占拠し、慌しく警察官が庁舎内に突入していく。現場が混乱する中、ストレッチャーに乗せられた2つの遺体が運び出された。マスコミにもみくちゃにされながら、ダイアン・ファインスタイン委員長が、マスコーニ市長とミルク委員が射殺されたことを発表した。容疑者はダン・ホワイト委員。それにかぶさるようにして警察の無線連絡が飛び交う。
「容疑者はホワイト、白人、32歳、茶色のスーツを着用、拳銃所持…。全部隊へ。ホワイトを逮捕した。繰り返す、容疑者を逮捕した」
警察に連行されていくホワイトに、市民が叫び声を上げる。
「ダン、なぜやった?どうして?」
10時45分。自分が再任されないことを知ったホワイトは、直接市庁舎に出向き、短い口論の後市長に発砲した。薬莢が空になるまで撃ち続け、続いてハーヴェイの部屋で彼に向けて5発発砲。検視結果によると、ハーヴェイの身体は蜂の巣にされていたそうだ。

周囲の人々は、これで歴史が変わってしまったことに混乱し、落胆し、呆然となった。とりあえず市庁舎に集まってきた支持者達は、ハーヴェイの死を悼んで沈黙の喪に服していた。誰も彼も泣き叫びもせず、ただ黙り続ける。怒りと悲しみの頂点に達した人々は、その夜手に手に無数のキャンドルを持ち、静かにカストロ・ストリートを行進していった。深い喪失を表現するのにこれほど雄弁な行為はなかっただろう。行進はどこまでもどこまでも続き、終わることがなかった。
ジム・エリオットは、そのときの感情を今も痛烈に思い出すことが出来る。彼が死に、人々と一緒に行進したことを、悲しみと言えるかどうかはわからない。ただ、見も知らぬ他人の中にいながら、まるで家でくつろいでいるかのような安らぎを覚えたのは確かだ。
トム・アミアーノは、誰かが「なぜ怒らない」と叫んでいたことを覚えているという。なぜだか彼にもわからない。これほど残忍な殺人に対し怒りを感じていたのは確かだが、あのときは穏やかでいることがふさわしかったと思う。
サリー・ギアハートも、静寂こそが、暴力に対する最も雄弁な表現であったと思い返していた。ゲイもレズビアンも異性愛者も一緒に行進し、暴力以外の方法で国中に訴えかけたのだ。ハーヴェイへの敬意と事件への深い後悔の念を。
市庁舎を中心として、周囲にキャンドルの灯火の輪が広がっていった。そして人々は銅像の所にそのロウソクを捧げていく。翌週、何人かの人達がカムアウトした。ハーヴェイ最後の行進に参加して、隠れて生きることが間違いだと気づいたからだ。それこそ、ハーヴェイが死を賭して証明してきたことに他ならない。カムアウトしたからといって、もうクビになることを恐れなくていいのだ。社会の閉ざされた一部分が少しだけ開かれたのである。
11月30日マスコーニ市長の葬儀が行われ、12月2日遺言どおり、ハーヴェイの遺灰が友人の手によって太平洋に撒かれた。

5ヵ月後、ダン・ホワイトに対する裁判が始まった。自分を委員として再任しなかった市長と、対立する委員を射殺した犯行動機は依然として不明だ。彼の隣人も、消防署の元同僚も、彼が模範的市民で教会へも熱心に通っていたと口をそろえた。
ハーヴェイの支持者は皆、この裁判がすぐ決着し、ホワイトは余生を刑務所で過ごすことになるだろうと予想した。ところが陪審員が選ばれた時点で、この裁判は公正な裁きにはなりえないかもしれないという嫌な予感が広まっていく。陪審員は皆マジョリティに属する人々で、ダンと政治的見解を異にする人間が含まれていなかったのだ。つまり裁判は、暗殺を生んだ制度そのものにゆだねられることになったのである。
検察側が殺人を立証するために法廷で公開したホワイトの自白テープは、却って陪審員の同情を引いてしまった。いわく、商売がうまくいかず家族と過ごす時間も制限され、様々なプレッシャーを感じていた彼は、委員として再任されることにのみ人生を賭けていた。ところがそれが反故にされ、頭にきて市長を撃った。ハーヴェイまでもニヤニヤしながら自分を見、侮辱されたと感じた彼はただ撃ったのだ。
ジーニン・ヨーマンズは自身のニュース番組で、検察側がホワイト容疑者の計画的な犯行だと断定していることを主張した。ホワイトは銃と予備の弾まで携帯し、金属探知機を避けて窓から庁舎内に侵入していたのだ。凶悪な殺人意図の証明であるのだが、対して弁護側は銃を護身用と言い張り、窓からの侵入も“よくある入り方だ”と言ってのけたのだ。弁護人はインタビューでも、予備の弾の存在と市長殺害後に新たに弾を込めなおしたことについても、元警官としての本能だと言い抜けた。

ホワイトは政治の腐敗にうんざりした理想主義者で、市が荒廃してしまったと考えていたとされた。さらに弁護人は、「良い環境にいる善良な人が冷酷に人を殺しはしない」とまで陪審員に訴えかけたのだ。弁護側の証人となった妻のメアリー・アンは、夫がプレッシャーの犠牲者であると信じていて、その後の人生になにか良いことが起こると確信していると、テレビのインタビューで語った。弁護側は仕上げに、ホワイトがジャンクフードの取りすぎで心神耗弱状態であったと精神科医に証言させ、ホワイトへの罪状は“故殺”とされるべきだと強固に主張。裁判はたった11日で終了してしまった。下された評決は、故殺で2年から4年の懲役判決。それに銃使用のため2年が加算される。つまり弁護人が陪審に要求したとおりの評決であった。この驚くべき裁判結果を全米中のメディアがこぞって報道すると、評決に反対する人々の抗議デモが展開され、市庁舎前は緊迫の度合いを深めた。
「正義が欲しい!ハーヴェイを忘れるな!ホワイトは豚野郎だ!連帯は揺るがない!」

怒りのままに市庁舎の窓を叩き壊し、警官隊と衝突する人々。怒声、悲鳴、叫び声。パトカーに火炎瓶が放り込まれ、辺りは炎に包まれる。威嚇する抗議者に複数の警官が殴りかかり、群衆は更にいきり立つ。
ハーヴェイの後任であるハリー・ブリット委員は、全てはホワイトの理不尽な暴力が原因だと切り捨てた。評決を下した陪審員も同罪だ。もしホワイトがマイノリティであったら?彼への評決は違ったものになっただろう。ホワイトと陪審員は暴力を正当化し、マスコーニ市長とハーヴェイの思い出を踏みにじったのだ。
火は燃え続け、警官隊と抗議者のもみ合いは夜を徹して続いた。

トム・アミアーノは言う。なにより許せないのは、自由の申し子であったハーヴェイの命が奪われたこと。彼はかけがえのない人間なのだ。
サンフランシスコの人々は、“ハーヴェイの復讐を”というプラカードをそこここで掲げた。サリー・ギアハートも、その考えが浮かばなかったわけではない。どうせ正義がないのなら、誰かがハーヴェイの復讐をするべきだと。だが結局、暴力を忌み嫌っていたハーヴェイが皮肉にも暴力に倒されることになったのだ。どこかでこの連鎖を断ち切らねばならない。
ヘンリー・ダーも同意見だ。社会の礼儀や他人の権利を無視しても、白人で中産階級以上でありさえすれば殺人を犯しても罪にはならない。そんな世の中を変えていく必要があるだろう。
ジム・エリオットは考える。もしホワイトが市長だけを殺害していれば、その生涯を刑務所で過ごすことになっただろう。悲しいかな、多くの人々はまだ、ゲイを抹殺することは世の中のためになると思っているのだ。ハーヴェイ達と出会わなかったら自分もそうだった。人々が戦うべきは、この偏見と差別意識であるのだ。

1984年1月7日、ダン・ホワイトは出所した。5年半の服役中、精神科による治療はついに行われなかったという。

支持者と共に練り歩くハーヴェイの映像。聴衆を前に演説する映像。犬の糞をゴミ箱に捨てるパフォーマンスでおどける映像。様々な人々とハグし、会話する映像。ゲイ・パレードで手を振る勇姿…。全てが、ハーヴェイとの輝ける思い出であった。
「ゲイである人に許される選択肢は?“隠し続ける”か“自殺”だ。だが新聞に同性愛者が当選と掲載されるとする。彼に与えられた新たな選択は“カリフォルニアに行く”だ。ゲイをもっと当選させるべきだ。そうすれば、多くのゲイの若者に明日への希望を持たせることができる。希望がなければ、全てのマイノリティの人々が人生をあきらめてしまう。希望のない人生は生きるに値しない。あなた達皆が彼らに希望を与えねばならない」

この映画の完成後、ダン・ホワイトは1985年10月21日自宅で自殺した。

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マイケル・ムーアが「華氏9・11」で、ドキュメンタリーの新境地を切り開いたと言われて以来、ドキュメンタリー映画は、興業的に省みられることのない地味な分野を脱却しました。実際のニュース映像や取材によって得た映像などをコラージュ的に編集しなおし、そこに効果的に音楽を入れ、訴えたいテーマを際立たせる手法は、今や一種のブームになりつつあります。従来のドキュメンタリーと一線を画し、ムーア監督は、事実もエンターテイメントとして確立させうることを証明したわけですね。しかし個人的には、事実を捻じ曲げることにもなりかねないこういった手法を、全面的に支持してはいません。ムーア監督の作品には、テーマ以前に監督自身の強い個性と持論が出しゃばりすぎており、それが作品の焦点をぼやけさせているように感じられるからです。
今回のドキュメンタリー作品はどうでしょうか。
1978 年に同じ執行委員によって暗殺された、伝説的な政治家、運動家ハーヴェイ・ミルクの生涯を、彼の活動を追った膨大なニュース映像、新聞記事、彼を知る様々な立場の人々からの証言映像で再構築したものです。そこには、よくある再現映像などは一切介在せず、事実のみで語られたハーヴェイの人間像が実に鮮やかに浮き彫りにされています。
嘘偽りのない事実の積み重ねによって、ハーヴェイがいかに大きな問題と戦ってきたかが、おのずと観客の胸に迫ってくるのです。
古い道徳観念に縛られた閉鎖的な社会で同性愛を公言することで、あらゆる非難の矢面に立ち、もっと柔軟で新しい概念を社会に根付かせようと自らを犠牲にした彼。映画では、彼が市政執行委員として直面した諸問題に焦点が当てられ、彼を殊更ヒロイックに描写してはいません。彼の活動を克明に伝えることで、彼が生きた時代のアメリカが抱える社会問題に目を向け、観客にもおおいに考えさせる作りになっているのです。それはハーヴェイ自身の生き方と重なり、ひいては世界中にいまだはびこる偏見やあらゆる差別問題について、観客自らが意見を述べることにもつながっていきます。つまりハーヴェイとは、あらゆる立場の人々が一つの問題を巡り、様々なしがらみを超えて結束するための、媒介的存在であったのですね。事実、彼の在職中は、カストロ界隈でも諍いが絶えなかった有色人種同士の対立や、マイノリティ同士の差別意識がなくなっていきつつありました。彼が最終的な理想として掲げていた、“全人類の連帯”の第一段階は成功していたのですね。
ハーヴェイが身をもって証明したことの一つに、どんなに深刻な状況であってもユーモアを忘れてはいけないということがあります。同性愛をカムアウトする勇気を持った人々から職を奪う条例案、提案6号撤廃のための運動で、彼はヘテロたる大衆を前に一歩も譲らぬ持論を展開しながら、一方ではジョークを発する余裕も見せています。ユーモアは緊迫した空気を和らげ、感情的になった人々の頭を冷やす効果があるということを知っていたのですね。特に、子供の教育とゲイの教師の問題が同じ土壌で論じられるとあっては、ヘテロの立場の人間もゲイの立場の人間もよほど慎重に対処しなければ、論争は見当違いの方向に転がっていってしまいます。そんなときこそ冷静な判断が求められるわけで、ハーヴェイはそういった点でも優れた政治家の資質を発揮していたといえるでしょう。大胆な改革のために犠牲も厭わず、しかし望む結果を得るために、いろいろな人々の立場を理解した上で彼らを上手に束ねることもできる。当時のアメリカのみならず、今の日本にも必要とされるリーダー像であるといえませんか。
ハーヴェイは、ゲイやレズビアンが自らの嗜好を自由に公に出来る世の中作りを目指しました。道徳観念や宗教観に反するからといって、彼らを社会の片隅に追いやる風潮を正そうとしたのです。実際にそれが成功すれば、社会はあらゆるマイノリティ―老人、少数民族、障害者など―に開かれた生きやすい世の中になることでしょう。彼は志半ばで凶弾に倒れることになりましたが、その理想はいまだ実現されるには程遠い状況ですよね。彼が後世に残した大きな課題です。

さて映画後半では、ハーヴェイを葬った側のホワイト容疑者に対する裁判の様相と、それが引き起こした社会現象について詳しく触れています。
ホワイト元委員は、まだ若く理想に燃えた純粋な青年でした。純粋すぎたともいえますね。政治にはもちろん高い理想が必要ですが、反面駆け引きや、甘い汁を吸おうと寄り集まってくる魑魅魍魎をうまくいなす手腕も必要とされます。いざとなれば、求める結果を得るために孤軍奮闘で戦う覚悟もしなければなりません。察するにホワイト元委員は、そういった政治的手腕を全く持ち合わせていなかったのでしょう。それなのに地元民の過剰な期待を背負ってしまった。ハーヴェイほど政治に人生全てを賭けて戦う甲斐性もなく、さりとて支持者にはメンツを保ちたい。そのうえ最後の砦である私生活にも行き詰まったことで、彼はいよいよ怯え始めるのですね。このままでは、自分が無能であることを世間に知られ、家族もろとも笑いものになってしまう…。それはなんとしても避けたいという自身のエゴが、彼を突然の委員辞任に走らせ、おまけに数日後の辞任撤回という迷走劇を演じさせる羽目になったのでした。自分で招いた混乱であるにも拘らず、結局政界に復帰できなかった不満を市長とハーヴェイ暗殺に向けるなど、言語道断の行為でしょう。地元民からのプレッシャーと自身の無能との板ばさみにあって苦悩したことは理解できますが、おもちゃを取り上げられた子供のような振る舞いには、全く同情の余地がありません。
ただ一つだけ言えるかもしれないのは、彼もまた、彼を政治的に利用しようとした周囲の人々―弁護人や反ハーヴェイ派の保守的な人々―に操られた傀儡だったということ。明らかな殺人者である彼を、蚊に刺されたかのような軽い刑罰で釈放することによって、マイノリティの象徴たるハーヴェイ・ミルクの存在を政界から抹殺しようとしたのではないでしょうか。
しかしその目論見は成功したとはいえませんね。ホワイト元委員の裁判後に起こった猛烈な抗議行動然り、またこの作品が彼の出所に合わせるように製作されたことも然り。ハーヴェイの死を無にしないよう、その思想を映像に永遠に刻印するために、彼の支持者や彼の遺志を受け継ぐ人々が再び力を合わせたことが、マイノリティ運動の雑草のような強さの証明であるのです。

この作品でナレーションを担当しているのは、ブロードウェイの寵児であるハーヴェイ・フィアーステインです。彼は早くからゲイであることをカムアウトし、エンターテイメント界でも揺るぎない地位を確立した俳優です。脚本も手がける才人で、近年でも「ラ・カージュ・オ・フォール」のリバイバルや、「屋根の上のバイオリン弾き」の主演などで大活躍していますね。映画では自作の「トーチソング・トリロジー」のがらがら声のオカマ役で有名になりました。音楽を担当したのは、アラン・ルドルフ監督の一連の作品などで有名になったマーク・アイシャム。
膨大な映像記録をスムーズに整理し、客観的な事実が観客に分かりやすく伝わったのは、ロバート・エプスタインとリチャード・シュミーセン両監督の手腕によるところが大きいでしょうね。効果的に新聞記事やンタビュー映像などを織り込んだ画面も、観客を最後まで飽きさせない作りになっており、単に記録映画にとどまらない、一つの映画として完成の域に達したものであります。だからこそ、最後のハーヴェイの演説―希望とは自ら作り出し、他者に分け与えるものである―が、観客の胸に迫ってくるのでしょう。

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