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zoom RSS 母なる女、ソフィア・ローレン―「戦場を駈ける女 Madame Sans Gene 」Part2

<<   作成日時 : 2014/07/07 23:56   >>

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我らがイタリアの太陽、そしてイタリアの母。

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ソフィア・ローレン Sophia Loren

1934年9月20日生まれ
イタリア、ローマ出身

本名:ソフィア・ヴィラーニ・シコローネ

イタリアのローマで建築技師をしていた父親リカルド・シコローネと、その愛人であった母親ロミーダ・ヴィラーニとの間に生まれた内縁の子であった。そんな事情もあって、ローレンの母は、彼女が生まれるとすぐに故郷のナポリ北部の街ポッツォーリに戻った。その地は今で言うところのスラムであり、貧困層の人々が肩を寄せ合って暮らす地域である。ローレン母子も、第2次世界大戦の間、物資の不足する中で戦火と飢えに耐え忍びながら生き抜いた。後年映画界で発揮されることになる、ローレンの強靭な精神力と何事にも前向きな生き方は、この頃に培われたものと思われる。厳しい生活を強いられる中でも、ローレンはすくすくと成長し、10代の頃には既に常人離れした素晴らしいプロポーションを誇るようになる。
終戦後の1949年、ナポリで開催された海の女王コンテストで入賞を果たし、その賞金で地元の演劇学校に通う。ローレンの容姿を最大限に活用できる職業、女優を目指すためだ。賞金の残りで母子はローマに赴いた。 1951年に製作されたハリウッド歴史大作「クォ・ヴァディス」に母子揃ってエキストラ出演したことをきっかけに、数々のイタリア映画に端役で出演するものの、生活状況は依然として厳しかった。そのため、アルバイトで雑誌のモデルを務めたり、映画でトップレスを披露したりと苦労が続く。当時の芸名はソフィア・ラッツァーロ。その頃、後に夫となるイタリア映画界の大物プロデューサー、カルロ・ポンティに見いだされ、彼の製作する映画に出演する機会を得た。初期の主演作である『Due notti con Cleopatra』(1953年)でも明らかなように、当時のローレンはやはり豊満な肉体美を武器にする女優の1人と認識されていた。しかし、1954 年の「ナポリの饗宴」に出演してから運を味方につけ始め、1955年の「河の女」(マリオ・ソルダーティ監督)で、ついにブレイク。ピエロ・パオロ・パゾリーニが初めて脚本に携わったことでも有名なこのメロドラマは、当時21歳の輝くばかりに美しいローレンの魅力を余すところなく伝えている。ストーリーは、密輸にも関わっている漁師と魚工場で働く健気な娘、彼女に恋する警官の三角関係と悲劇を追ったもの。ローレンが劇中でマンボのリズムに合わせて踊る、野性的な姿が強烈であった。主題歌の“マンボ・バカン”もヒットし、マンボ映画の成功作としても知られる。それを見たスタンリー・クレーマー監督によってハリウッドに招かれ、1957年「誇りと情熱」でハリウッドに上陸した。以降はローレンの黄金期が始まる。

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同年、彼女のための企画ともいえる「島の女」でも圧倒的な肉体美を誇るシーンを披露し、欧米をまたにかけて活躍する国際女優の地位を確立した。ユージン・オニールの戯曲の映画化「楡の木蔭の欲望」、ケーリー・グラントと共演したほのぼのロマンチック・コメディ「月夜の出来事」(グラントとは映画を地でいくロマンス関係に陥ったという)、アンソニー・クィンとの共演作「黒い蘭」など一連のハリウッド作品で、セクシーな容姿のみならず喜劇的な演技センスや男女の濃厚なロマンスを体現する才覚を大いに発揮した。1959年の「黒い蘭」でベネチア映画祭主演女優賞を、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の過酷な戦時下ドラマ「ふたりの女」では、アカデミー主演女優賞およびカンヌ映画祭の主演女優賞をダブル受賞し、名実共に押しも押されぬトップ女優に君臨する。
その後1960年代から1970年代にかけては、イタリアが生んだもう1人の大スター、マルチェロ・マストロヤンニとのコンビで名作を量産する。オムニバス・コメディー「昨日・今日・明日」、デ・シーカ監督の人情喜劇「ああ結婚」、戦争に引き裂かれる哀切な愛のドラマ「ひまわり」、主婦の倦怠を全身からにじませて秀逸であった、エットーレ・スコーラ監督の「特別な一日」。彼女ほど、ハリウッド映画界とヨーロッパ映画界双方に於いて名作をものにした俳優も例を見ない。また、骨太のドラマ作品、愛を描くロマンティックな作品、娯楽大作など、出演作におけるバランス感覚の絶妙さも感嘆に値する。当時、いかに彼女のトップ女優としての地位が揺るぎないものであったかが伺える。
彼女の華麗なるフィルモグラフィーの中では地味で埋もれていしまいがちであるが、 1960年の「求むハズ」では、バーナード・ショウ原作の戯曲のイメージをコミカルに体現。クセモノ役者ピーター・セラーズと互角に渡り合う貫禄を見せた。また、喜劇王チャップリンの監督作「伯爵夫人」(1967年)では、ハワイ行きの豪華客船に密航する零落した伯爵夫人を演じ、石油王のボンボン息子マーロン・ブランドとほほえましいロマンスを展開した。両作品とも、こと喜劇のセンスが抜群に秀でたローレンの資質を証明したものである。
肉体美で映画界にのし上がったローレンは、しかしその後は純粋に演技力を発揮できる映画を選んで出演し、人間の光と影を体現する巧みな心理描写に磨きをかけた。それが彼女をして、イタリアの伝説的な女優に成長させたのである。まさしくイタリアの太陽、大いなる母性を象徴する彼女が、一度たりともスターの地位を危うくさせなかったのは、女優として成熟するためのたゆまざる努力と、逆境にめげないガッツ、天性の才能、そしてなにより、豊かに演じることを人生と同様愛し続けた精神の故であろう。

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1957年に、よき理解者でアドバイザーでもあったカルロ・ポンティとメキシコで結婚した。ところがこのときポンティには妻がおり、ローマ・カトリック教会では認められていない離婚をメキシコで申請したことから、逆にポンティが重婚罪で告訴されることになってしまう。もちろんローレンとの結婚も、イタリアの戸籍上では無効。つまりポンティとローレンの関係は、世間的には長い間不倫とみなされていたのだ。1966年になってようやく彼らの結婚がパリで認められ、すぐさまポンティの名誉回復のため、イタリア上告裁判に重婚罪の罪状を取り消すよう訴えたが認められなかった。以降、ローレン夫妻とイタリア政府の関係は良くないともいわれている。彼の離婚が成立したのはその後1972年になってからで、2人が晴れて正式に結婚できたのも同年。ポンティに脱税疑惑がかけられた事件の後は、スイスのジュネーヴに居を移している。事件の際にポンティ所有の絵画がイタリア当局に没収されていたのであるが、ポンティの死後、ローレンはそれらを遺産として取り戻すために裁判を起こしている。1968年には長男を、1973年には次男を出産している。そのうちの1人、エドゥアルド・ポンティは、2002年に母親を出演させた映画「微笑みに出逢う街角」で監督デビューを果たした。
実は地元ナポリのサッカーチーム“SSCナポリ”の熱狂的なサポーターで、“同チームがセリエAに昇格したらサポーター達の前でストリップ・ショーをやる!”と発言して大いに話題になった。70歳を超えた今でもそのプロポーションが崩れることなく、年齢相応の美しさを備えた容貌にも一点の翳りも見られない自信が、そのちゃめっけ発言に繋がったものと思われる。

●フィルモグラフィー

2009年「Nine」
2006年「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」
2002年「微笑みに出逢う街角」
2000年「アルマーニ」
1995年「ラブリー・オールドメン/釣り大将LOVE LOVE日記」(未)
1994年「プレタポルテ」
1989年「ふたりの女」
1988年「ルシアの生涯(前・後)」(TVムービー)
1986年「勇気」(TVムービー)
1980年「美女誕生/ソフィア・ローレン」(TVムービー)
1979年「リベンジャー」
1978年「愛の彷徨」(未)
1978年「ブラス・ターゲット」
1977年「特別な一日」
1976年「カサンドラ・クロス」
1975年「ガンモール/おかしなギャングと可愛い女」
1974年「愛の終りに」
1974年「逢いびき」
1974年「旅路」
1972年「ラ・マンチャの男」
1970年「結婚宣言」
1970年「ひまわり」
1967年「イタリヤ式奇跡」
1967年「伯爵夫人」
1966年「アラベスク」
1966年「栄光の丘」
1965年「クロスボー作戦」
1965年「レディL」
1964年「ああ結婚」
1964年「ローマ帝国の滅亡」
1963年「アルトナ」
1963年「昨日・今日・明日」
1962年「ボッカチオ'70」
1962年「真夜中へ5哩」
1961年「エル・シド」
1961年「戦場を駈ける女」
1960年「西部に賭ける女」
1960年「ナポリ湾」
1960年「バラ色の森」
1960年「ふたりの女」
1960年「求むハズ」
1959年「私はそんな女」
1958年「鍵」
1958年「黒い蘭」
1958年「月夜の出来事」
1958年「楡の木蔭の欲望」
1957年「失われたものゝ伝説」
1957年「島の女」
1957年「誇りと情熱」
1955年「河の女」
1955年「殿方ごろし」
1955年「バストで勝負」
1954年「侵略者」
1954年「ナポリの饗宴」
1954年「無常なるかな人生」(未)
1951年「クォ・ヴァディス」

シルヴァーナ・マンガーノが月光だとしたら、ソフィア・ローレンは真昼の太陽。くっきりとした目鼻立ち、彫りの深い容貌、男なら顔を埋めずにはいられないであろう豊かな胸と雄大なお尻。豊満な上半身とカモシカのような長い足を繋ぐウェストは彫刻のようにくびれていて。全ての人間の理想、まさしくこの世に降臨した女神そのものの肉体。
美人コンテスト上がりで、デビュー当初は肉感的なボディーを見せ付けるような役柄で一世を風靡した彼女たち。女優として似たような経緯を辿りつつも、しかしその後の2人の女優人生は大きく異なっています。彼女たちの間にある決定的な違いとはなんだったのでしょう。
ジェラール・フィリップの人気作「花咲ける騎士道」を監督したことでも知られるクリスチャン・ジャックの作品「戦場を駈ける女」を観ると、その問いに対する答えが分かるかもしれません。なぜなら、この作品で演じたカテリーナという女こそ、ソフィア・ローレンという女優の根幹、その生き様と人となりまでを暗示するキャラクターだからです。
ストーリーの方はいたってシンプル。フランス革命直後の混乱するパリで偶然に出会った2人の小市民男女が、その後のナポレオンの台頭から栄光の日々に翻弄される様をコミカルに描くものです。作品のテーマと狙いも明確で、どんな逆境にあっても決してめげない庶民の雑草のごときバイタリティーを、カテリーナというずば抜けてタフな女に投影しているのです。そして、庶民のシンボルであるカテリーナとルフェーブルを、わらしべ長者のように貴族の世界に放り込むことで、よそ者たる彼らが巻き起こすカルチャー・ギャップのおかしみを笑いつつ、彼らの目から見た特権階級の欺瞞と矛盾を風刺しようというわけです。

フランス革命に関しては、実に多くの歴史的逸話が残されており、小説、戯曲、映画に取り上げられる回数はもはや数え切れないほど。この映画でも、カテリーナとルフェーブル夫婦の人生を動かすキー・パーソンとして、ナポレオン・ボナパルトが重要な役回りで登場します。演じたジュリアン・ベルトーは小柄で、顔立ちもナポレオンに似ておりびっくりさせられますが、映画序盤では彼はまだ一介の中尉にすぎない存在です。カテリーナの経営する宿に世話になっている、優秀な軍人ですね。カテリーナが毎度持ち込む無理難題に、軽口をたたきながら対処する様は、しかし未来のヨーロッパの覇者を予感させるただならぬもの。彼の発する印象的なセリフがあります。
「庶民は道端では革命に声援を送るものの、それを家の中にまで持ち込むことは許さない」
歴史の流れが大きく変わる境目には、全ての国民がわけ隔てなく大きな痛みを被るものですが、庶民はといえば、変革だけを求めてそれに伴う痛みは拒否する身勝手なものだと皮肉っているわけですね。
ルフェーブルはこの頃からナポレオンの部下であり、彼の命令が全てという生活を送っていました。もっともカテリーナにとっては、ナポレオンとは、単なる貧乏将校にすぎず、フランス革命達成直前にしてコルシカに“逃亡した”卑怯者であったのですが。
その後、不安定なフランスの歴史は大きく動き、ナポレオンはついにフランスを1つにまとめあげます。膨大な兵力をつぎ込み、日々戦争に明け暮れた結果であったのですが、カテリーナに代表される庶民が巻き添えを食い、犠牲にした人生の損害は計り知れないことでしょう。彼女が思い余って恋人ルフェーブルを戦地まで追っかけていくのも、劇中では言及されていませんが、未来に希望が持てない末の最後の賭けであったように思うのです。ひたすら前向きでパワフルに苦境を乗り越えていくカテリーナだからこそ、作品は明るさを保持していますが、よく考えれば彼女の行動は当時の女性としてはかなり大胆であり、そうせざるをえない事情も悲惨なものがあったのではないでしょうか。
最前線でカテリーナとルフェーブルが巻き起こす珍騒動は、かの「花咲ける騎士道」のファンファン・ラ・チューリップの小気味良い活躍を彷彿とさせます。夜明けには職務怠慢で銃殺されるはずが、すんでのところで敵方に処刑されそうになり、一発逆転で仕掛けた攻撃が敵を壊滅させるなんて、この時代背景ならではの躍動感ですよね。ローレン演ずるカテリーナも、長いドレスの裾を翻し、実に生き生きとしています。ナポレオンは、功のあった者、能力のある者には即座に恩賞でもってそれに報いる人物と描かれ、人を見抜く眼力と公正な判断力を持つリーダーであると解釈されているようです。この作品では、彼はスーパーマンのような男ではなく、時には茶目っ気も見せる人間味ある人物として描かれています。まあ元々がコメディ・ドラマですから、別の面では冷酷な独裁者であったナポレオンといえど、あまり悪者にはできない事情もあったのでしょう。

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大尉から一気に大佐にまで昇進したルフェーブルとカテリーナは、戦地でも片時も離れず共に戦い抜きます。この時期のカテリーナの姿は、本来なら映画の主題ともなるべき重要な部分であると思うのですが、映画ではばっさり割愛されています。後に公爵夫人となった彼女が、宮廷人を相手に啖呵を切る際に、彼女の言葉として語れるのみ。おそらく、コメディ映画としてのリズムとテンポを崩さぬようにという配慮があったのでしょう。さらに、華であるローレンに見せ場を作る意図もあったと思われます。事実、カテリーナが語る戦場での悲劇は、そのまま映画の訴えんとするメッセージとなっていました。
最前線でのカテリーナは、数多くの名もなき兵士達の母でありました。彼女はそこで数え切れないほどの無残な死を見届け、困った者を放っておけない彼女ですらなす術もない無力感に苛まれたはずです。自身も大怪我を負う災難に見舞われ、一体戦争とはなんなのか、革命や自由の大義の下にいとも簡単に踏みにじられる尊い命は何を意味するのか、思いを馳せたことでしょう。その経験があるからこそ、彼女は公爵夫人となっても貴族面を下げることをよしとせず、あくまでも底辺から這い上がった庶民の気概を生きる支えとしたのです。下賎な生まれは恥ではなく、最後まで生き残ったことを逆に誇りとしようと呼びかける言葉こそ、映画の掲げる大きなテーマですよね。生きるために死ぬより辛い経験をしたとしても、それを顔に出すことなく、真っ直ぐ前を向いて笑って歩み続けることの素晴らしさと厳しさ。カテリーナ、一世一代の名演説の裏には、そんな彼女の隠された心の叫びがあるのです。それは誰の胸にも充分訴えかける力があるでしょう。ローレンの出自と人生の歩みを見るにつけ、カテリーナとそれを演じるローレンの実像が重なってくる瞬間ですね。またこの言葉は、時代を超えて社会を統括する立場の人間に向けて発信された、痛烈な皮肉にもなっているのです。
最後の最後になって、カテリーナは愛する夫と引き離されそうになります。常に死と隣り合わせであった戦場でも一緒であったのに。彼女は、何事も力と恐怖で押さえつけようとするナポレオンと対等に対峙し、共に厳しい時代を生き抜いた“同志”であるはずの彼に、その頃の気概を思い出せます。今や権力の頂点に立つナポレオンにとって、カテリーナは遠い遠い記憶の1ピースでしかありえない存在でしょうが、思いもかけず、そんな彼女から大切なものをプレゼントされたわけですね。彼が一兵士であった頃に抱いていた燃えるような野望と、未来への力強い確信です。それは、王となった今の彼が見失ってしまったものでもあります。結局、全ての男にとっての“母”であるカテリーナは、ナポレオンにとっても同じく“母”でありました。いかな権力者といえども、母親には終生頭が上がらないもの。ナポレオンがカテリーナに“敗北”を喫してしまうのも、当然の帰結なのです。
実際、常に孤立している彼の周囲には、カテリーナのように忌憚なく本音を言い合えるような人間は皆無でしたでしょうね。それを思うと、映画に描かれたナポレオンの姿には、一抹の寂しさも感じられますね。

貧しい生まれから身を起こし、厳しい時代も笑顔で耐え抜いて、貴族にまで上り詰めた洗濯女の一代記。ローレンは自らの人生を、演じる対象であるカテリーナに投影し、スクリーンいっぱいに魅力を放つ人物像に昇華させました。演技する自我と本当の自我を一体化させつつ、より豊かな人物像を創造していく過程で、ローレン自身も成長していったのでしょうね。

マンガーノとの“違い”は、そういったしたたかさを観客の共感に置き換えることが出来る才能かもしれません。

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ソフィア・ローレン

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