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zoom RSS きっと誰も悪くない−「ドイツ零年 Germania anno zero」

<<   作成日時 : 2014/11/19 23:24   >>

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“「ドイツ零年」を作るにあたっての私の意図は、私の全ての作品と同じでした。愛することの出来る心と、考えることの出来る頭脳を持った世界中の観客の為に、カメラが捉えたままの正確な真実を再現したかったのです”―ロッセリーニ・インタビューより抜粋


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…僕はきっと天国には行けない…

「ドイツ零年 Germania anno zero」(1948年製作)
監督:ロベルト・ロッセリーニ
製作:ロベルト・ロッセリーニ&サルヴォ・ダンジェロ
脚本:ロベルト・ロッセリーニ&カルロ・リッツァーニ&マックス・コルペット
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:レンツォ・ロッセリーニ
出演:エドムント・メシュケ(エドムント・ケーラー)
エルンスト・ピットシャウ(エドムントの父)
インゲトラウド・ヒンツ(エヴァ・ケーラー)
フランツ=オットー・クリューガー(カール=ハインツ・ケーラー)
エーリッヒ・ギュネ(エニング先生)
バーバラ・ヒンツ(ティルデ)
ハイジ・ブレンクナー(家主の妻)
ハンス・ザンゲン(家主)
アレクサンドラ・マニス(クリステル)
バブシ・シュルツ=レックウェル(ジョー)
フランツ・フォン・トロウベルグ(閣下)他。

“道徳律やキリスト教の慈愛の精神は、永遠に人間生活の基礎となるべきものである。イデオロギーの偏向は犯罪と狂気をつくりだす。それは子供の純真な心までも汚染せずにおかないのだ”

敗戦2年後のベルリン。戦争で廃墟と化した都市で、350万にのぼる人々が飢えと絶望の中でぎりぎりの生活を強いられていた。敗戦国民として、彼らは生きる意欲も尊い信仰心も見失っていた。
エドムント・ケーラーは12歳の少年だ。彼の一家は、焼け跡ビルの粗末なアパートで、意地悪な大家にいびられながら暮らしていた。父親は重病で起きあがることもできず、兄カールは元ナチス党員であったことを告発されるのを恐れて、家の中に引きこもっている。姉エヴァは夜になると外国人が集まる街のクラブへ出かけ、娼婦まがいのことをしていた。それでも一家の家計は苦しく、今日食べるものにも事欠く始末である。エドムントも、少年ながら石炭を盗んだり墓堀り仕事をして、少しでも家計の足しにしようとがんばるのだが、そのたび自分の生活のことしか頭にない大人達に追い払われてしまう。
大家はエドムントの前で平然と、電気代とガス代がかかるから病人と妊婦は迷惑だと吐き捨てる。また、夜になると出かけるエヴァのこともののしり、今にお前達をたたきだしてやると怒鳴るのだった。苦しい生活に耐えかね、エドムントの父は、家の中でくすぶっているカールに出頭して外で働くように諭す。エヴァも働かずにいるカールを責めるが、逮捕が怖いカールには外へ出ることがどうしてもできない。
そんな大人達のために働くことも出来ないエドムントは、無力感をひしひしと感じる。彼の懇願も虚しく、エヴァは外国人の客からもらうタバコを目当てに、今夜もまたクラブへ出かける。彼女はそのタバコを売ってわずかなお金に換えているのだ。売春もしている女友達ティルデに、金を稼ぎたいなら体も売れと唆されるが、収容所にいる恋人の帰りを待つエヴァには、とてもそんな勇気はない。いっそのこと体も売ってしまえば楽になれるのか。
エドムントは、大家に売れと命令された秤を広場まで持っていく。しかしすでにそこには、貧しい少年たちが縄張りを作っていて、エドムントを入れてはくれない。彼はコートを着込んだ紳士に秤を騙し取られてしまう。腐りかけの缶詰と交換させられてしまったのだ。公園で、エドムントはかつての教師エニングと再会した。エニングは熱烈なナチス崇拝者であったため、戦後の今職もないのだ。彼に連れられてエドムントはある屋敷にやってきた。そこには、エニングが『閣下』と呼ぶ怪しげな人物をはじめ、労働者には見えない大人達が気だるげに集っていた。エニングは気味が悪いほど優しげにエドムントに接し、少年が仕事を欲しているのを知ると、ナチスの大本営の跡地で、ヒットラーの演説を録音したレコードを観光客に売りつけるという仕事を与える。エドムントは、エニングが束ねる窃盗団のボス、ジョーとその恋人のクリステルに預けられた。
3人は外国人の兵士相手に早速商売を始める。蓄音機から流れるヒットラーの演説が、廃墟と化した大本営跡地に響く。

“ドイツの未来は限りなく明るい。前途に何の不安もない。我々は勝つ!戦いはこれからなのだ”

レコードはうまく売れ、エドムントはエニングから駄賃に10マルクもらう。エドムントは、ジョーが駅構内で夫人から財布を掏る様を興味深げに見守る。そのまま電車に飛び乗り、エドムントとジョーとクリステルは不良グループと合流し、共にジャガイモを乗せた列車を襲う。エドムントはジョーに取り入り、なんとか奪ったジャガイモを分けてもらう。家に帰れない彼をクリステルが送ってくれた。
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朝帰りしたエドムントを、父親は厳しく叱る。そしていつものように、早く死にたいと繰言をくりかえすのだった。カールも盗品を口にするぐらいなら死んだ方がましだと毒づく。
大家は、缶詰を持ち帰ったエドムントをハナから盗人扱いする。彼の前で「お前の父親など早く死ねばいいのだ」と言う。エドムントが必死でやったことを誰も褒めてはくれない。否定するばかりだ。
父が発作を起こし、医者が呼ばれた。極度の栄養失調状態のため、心臓が弱っているのだ。医者のコネでなんとか入院させてもらえた父は、3度3度出される病院食と、家族の負担にならずにすむという安堵感で、たちまち元気になっていった。ところがアパートでは、大家の細工で盗電の罪が一家になすりつけられ、電気まで止められてしまった。おまけに父が退院するというのに、食べるものがひとつもない。エヴァとカールは大喧嘩し、エドムントはエニング先生のところへ助けを求めに行った。
しかしエニングは、新しい少年を『閣下』の元に差し出すのに忙しく、ろくに話も聞いてはくれない。
「健康な者さえ大変な今、誰も運命には逆らえんさ。死ぬときは誰だって死ぬんだ。苦しいときに情けは無用だ。弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者を犠牲にする勇気も必要なんだ。そして生き延びる。よく考えて行動するんだな」
エニングの説くナチス式弱肉強食論は、まだ幼いエドムンドの胸にひたすら重く響いた。彼は病室の父を訪ねる。父は相も変わらず「死にたい」という繰言をくりかえすばかり。その隙にエドムントは看護婦の置いていった劇薬をポケットにしのばせた。
父がアパートに帰ってくる。しかしスープも茶もない食卓を見て、彼は病院の方が良かったとぶつぶつ文句を言った。何万回もくりかえされた「どうしてわしは死ねないんだ」の繰言。そしてカールに、長男としての義務に目覚め、勇気を出して出頭するよう懇願する。逃げ隠れする生活をやめ、人並みに働いて生きること。それは家族のためだけでなく、本人のためにもなることだ。父が第1次世界大戦の頃の思い出話をしている間、エドムントは父に劇薬入りの紅茶を作る。沈痛な面持ちでそれをすべて父に飲ませたエドムント。何も知らない父は、子供達に感謝するのだった。そのとき警察の手入れが入る。カールはついに警察と共に署へ向かうのだった。
その晩遅く、父が亡くなった。アパートの大人達は、父の死体を前に好き勝手なことをしゃべる。金が惜しいから葬式なんぞしない、棺おけももったいないから紙で包んで埋葬する。でも死体が身に付けている肌着はウールだからもらっておこう…。それを聞きながらエドムントがどんな気持ちでいるのか、誰も理解してはいなかった。
カールは翌日無事帰宅した。しかし、喜んでもらえると思っていた父はもういない。兄弟は悲しみにくれる。大家から立ち退きを強いられた彼らは、カールの女友達のところへ移動しようとするが、混乱したエドムントは一人でアパートを飛び出していった。
少年は瓦礫となった建物の中で遊び、橋を渡り、あてどなく街をさまよう。夜になって不良グループのたまり場に足を踏み入れ、クリステルを探したが、彼らからはていよく追い払われてしまった。夜の孤独の中で一人悩むエドムント。その顔は生気を失い、少年らしさは微塵もみられない。苦しんだ挙句、夜が明けると彼は最後の拠り所であるエニングの元へ向かうのだった。
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しかしエドムントから事情を聞いたエニングは、身勝手にも殺人を示唆した覚えはないと言い張り、頼ってきた彼を拒絶する。興奮したエドムントは泣き崩れ、エニングの手を振り切ってまた街へと飛び出していく。空き地でサッカーに興じる子供達の集団を見つけ、エドムントは輪の中に入っていこうとする。が、子供達は、自分達より少し背の高い彼を仲間には入れてくれなかった。彼はまたたった一人で街の瓦礫の中をさまよう。通りがかった教会からオルガンの音が聞こえる。その妙なる音色も、今や彼の耳には父殺しの断罪の声に聞こえる。彼は逃げるようにその場を離れ、うち捨てられた廃墟の中に入っていく。なにもない建物こそ、今の彼の心境にふさわしいものであるかのように。拾ったガラクタを拳銃に見立てて、一人でちゃんばらごっこに興じる。ふと見ると、アパートから父の遺体が運び出され、車に乗せられているところだった。姉と兄がエドムントを呼んでいる。彼は見つからないよう隠れると、ぼんやりと向かいのアパートを見つめ、ついに建物から身を投げたのだった。

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イタリアのネオ・レアリスモの代名詞であるロッセリーニ。彼は第2次世界大戦終結直前のイタリアで、「無防備都市」「戦火のかなた」の2作を製作しました。これは、イタリア国内におけるファシズムへの市民の抵抗運動をドキュメンタリー・タッチで描いた作品です。現実と見まごうばかりの、荒々しい映像に映し出される戦争の実態の悲惨さは、今世紀においてもなお、観客の心を揺さぶり続けています。この2作品に続く「戦争3部作」の最後の作品として、戦後2年の廃墟と化したベルリンでロケを敢行したのが、この「ドイツ零年」です。

この作品でロッセリーニ監督は、前2作とタッチをがらりと変え、戦争に敗れ、ナチスの戦争責任を世界中から厳しく問われていた時代のドイツを舞台に、生きるために日々過酷なサヴァイヴァルを強いられる少年の悲劇を淡々と描写しました。そこでは、愛国論を振りかざすような一種のアジテーション的演出は一切排除され、戦争が終わってもその残された傷跡から立ち直れないでいる家族を冷徹に描ききりました。そして極めて公平な目線で、エドムント少年と照らし合わせて当時の敗戦国ドイツ国民が追い詰められる様を見つめています。それはなにもドイツに限ったことではなく、戦禍を乗り越えた世界中の国々に共通する悲劇であることを暗示したのですね。これは当時の作品としては(1948 年)、極めて珍しいグローバルで冷静な視点だといえます。製作後間もなく公開された日本での、この作品への反応を考えると、複雑にならざるを得ません。初めて公開されたときの日本での評価は、多分にヒステリックなものだったそうです。作品のもつ斬新さや、人間性特に子供達のそれへの限りない愛情といった本質は見逃され、ショッキングな描写ばかりがクローズアップされてしまいました。まあ、日本が敗戦のショックから立ち直れていなかったことを差し引いても、作品にとっては随分不幸なことでした。

また、この作品には同時に、未来の世界を担う人類共通の宝である子供達を、国籍や人種に関係なく、一様に“戦争”のもたらす悲劇から救わねばならないという、ロッセリーニ自身の願いが強く込められてもいます。戦争直後の苦しい生活事情にばかり目を奪われ、子供達のイノセンスを守り、未来へとつなげていくことが軽視されがちであった、当時の世相への皮肉でもあったのでしょう。そしてロッセリーニ監督の願いは今もなお、充分に果たされずじまいであるのです。
エニング先生に示唆されて、弱肉強食の原理に感化されたエドムント少年は、実の父親を殺害するという人間としての“一線”を越えてしまいます。しかも少年は、そうすることで誇り高きドイツ国民としての責務を果たしたと錯覚してしまう。その姿は、現在イラク、アフガニスタン、パレスチナ、アフリカ…様々な紛争地域でテロ組織に飲み込まれていく子供達の姿に、そのままオーバーラップしていきます。荒廃した祖国で、食べるものにさえ事欠く生活から抜け出すために、多くの子供達が否応なく“兵隊”になり、組織の捨て駒として命を落としていく。そんな悲惨な実情は、実は半世紀前から少しも進歩していないのです。
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また製作当時(1948年)における、この作品のもう一つの注目すべき斬新な点は、少年の描き方だと思います。後年になって「大人は判ってくれない」を製作する、フランソワ・トリュフォー監督に多大な影響を与えたその“子供観”。子供は庇護すべき弱い存在で、純粋・無垢であるという従来のステレオタイプの概念を壊し、子供は子供なりの観点から、冷ややかに大人の世界を観察・評価しているものなのだ、と主張したのですね。だからこそロッセリーニ監督は、年端も行かぬ子供達を意のままに操り、良からぬ企みをする大人達―エニング先生が隷属するナチスの残党『閣下』の一味に象徴される―の身勝手さをも、劇中で告発しているのでしょう。子供達というのは、常に大人の世界の是非を判定する存在です。だからこそ、大人の身勝手な論理の犠牲にしてはならない。大人が子供の良き模範たるべきということは、そういう意味だと理解できます。
映画では、エドムント一家をいびり出そうとする大家をはじめ、エドムントから秤を騙し取る者、また子供達に窃盗を働かせて上前をはねるナチス残党など、卑劣な大人達がこれでもかと描かれます。でもそれは、決して誇張された表現ではないことを、私達は肝に銘じておかなければいけません。エドムントを父殺し、自殺に追いやったのは、戦争のもたらした禍以上に、彼を取り巻く大人達―家族を含めた―の無責任な行動であったと思われるからです。
現在、以前にも増して子供の自殺率が多いことを考えると、映画で描かれた恥ずべき大人の顔は、私達の上にも頻繁に現出しているのでしょう。この点において、今一度私達はわが身を深く省みなければいけないのですね。
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映画の冷ややかなタッチについ忘れそうになるのですが、ロッセリーニによって起用された俳優達(中には素人もいた)は、皆非常に瑞々しい演技を披露しています。演技に見えない演技ですね。ロッセリーニは、極力プロの俳優を使わず、映像をできる限りリアルに見せる努力をしたと言われます。
しかしいつも思うのですが、いくらドキュメンタリーぽくリアルに撮影するといっても、カメラを置き、俳優を立たせた時点で、虚構の世界に足を踏み入れていることになってしまいます。ですから彼は、ざらついた触感のロケ映像を映画的空間の中にうまく組み入れて、単なるドキュメンタリー・フィルムには出せない情感をシークエンスに湛えるのです。たとえば、エドムントが父の飲む紅茶の中に盗んだ劇薬を入れようとする、サスペンスフルなシーン。この極めて映画的な緊張の後に用意されるのは、少年が一晩中荒んだ街を徘徊するシーンです。彼は途中で想いを寄せた少女を訪ねたり、道端を遊ぶように飛んでいったり、サッカーをする子供達の輪に入ろうとしたりします。廃墟となった街を背景にして、それらすべてのシーンがまるで夢の中を彷徨するような、ある種のはかない美しさがあります。
結局エドムントは、先生からも不良グループからもサッカーの輪からも疎外されてしまい、“子供らしさ”から否応なくはじき出されることになります。父親の遺体が運び出されるという現実に引き戻された彼は、それこそ緊張の糸がプツンと切れるように、自分が生の世界からもはじき出されたことを自覚するのですね。街中をさまよう美しいシークエンスの後に、再び、幼い子供が身を投げるという冷酷な現実を画面にたたきつけ、映画は観客の心をわしづかみにするのです。

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