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zoom RSS 「ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer in the Dark」

<<   作成日時 : 2016/01/03 07:17   >>

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太陽の光が輝く昼間を現実だとしたら、漆黒に沈む闇夜は幻想。真昼間には明るすぎて存在がかき消されているものが、また、闇夜には紛れてしまって見えなくなるものが、それらの狭間に一瞬浮き上がる薄暮(vespertine)の時間にだけ姿を現すことができる。ならば薄暮とは、きっと現実と幻想がぶつかって飛び散る軋轢の火花なのだろう。芸術は、現実世界と幻想世界が融合できずにその境界線でジリジリと一進一退を繰り返す、まさにその瞬間に生まれるという。
現実世界に身を置きながら、魂だけを幻想の世界に解き放ってしまったセルマとは、あるか無きかも覚束ない薄暮のような儚い存在であったのだ。もしも“芸術”を実体化するとしたら、きっとそれはセルマのような姿をしているに違いない。

自己矛盾に満ちたセルマの物語は、私とあなたの物語でもある。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer in the Dark」(2000年製作)
監督:ラース・フォン・トリアー Lars von Trier
製作:ヴィベケ・ウィンデロフ
製作総指揮:ペーター・オールベック・イェンセン
脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミューラー
振付:ヴィンセント・パターソン
音楽:ビョーク
出演:ビョーク(セルマ)
カトリーヌ・ドヌーヴ(キャシー)
デヴィッド・モース(ビル)
ピーター・ストーメア(ジェフ)
ジャン=マルク・バール(ノーマン)
ヴラディカ・コスティック(ジーン)
カーラ・セイモア(リンダ、ビルの夫)
ジョエル・グレイ(オールドリッチ・ノヴィ)
ヴィンセント・パターソン(サミュエル)
ジェリコ・イヴァネク(地方検事)
シオバン・ファロン(女看守ブレンダ)
ウド・キア(ポーコルニー医師)
ステラン・スカルスガルド(医師)

セルマは、豊かな暮らしを夢見て60年代のアメリカに渡った、チェコ出身の貧しい女でした。しかし現実には、片田舎のステンレス製のスチール流し台を作る工場で、朝から晩まで過酷な労働に従事する毎日。しかも彼女には、もうすぐ13歳になる難しい年頃の息子もいます。当然父親はおらず、彼女は女手一つで厳しい経済状況の中、息子を育てています。それでも彼女は年上の同僚キャシーや、朴訥で好意を寄せてくれる男ジェフ、仕事先の工場長ノーマンなどの周囲の人々の理解と支えで、なんとか辛い日々を過ごしているのです。そんなセルマが唯一の楽しみにしているのは、ミュージカル。仕事帰りにキャシーとミュージカル映画を観たり、ときには仕事中でも、大好きなミュージカルのナンバーを歌っている自分を夢想したりすることで、日ごろの苦しみやストレスから逃れています。

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しかしながら、辛いことが重なると空想する時間が増え、仕事も上の空になっていき、職場でミスを連発するように。そんな折、トレーラーハウスを借りていた家主のビルから、セルマは重大な秘密を聞かされます。優秀な警察官で昇進も間近であった彼が、妻リンダの浪費が元で破産寸前だというのです。妻にそれが知れれば離婚になってしまう。ビルは思い余ってセルマに相談を持ちかけたのでした。セルマは、ビルが自分だけに大切な秘密を明かしてくれたことをうれしく思い、彼女自身の秘密も彼に明かします。彼女は遺伝性の眼病で失明しつつあること、同じ病に侵される息子に手術を受けさせるために費用を貯め続けていること。息子ジーンには誕生日プレゼントすら満足に買ってやれない生活だが、彼に手術を受けさせることだけを目標に心を鬼にしてがんばっていること…。ところがその話を聞いたビルは、セルマが必死で貯めたお金を無心し始めます。リンダに知らせるわけにもいかず、苦悩するセルマ。そしてとうとう工場を解雇されてしまった彼女は、同時に完全に視力を失ってしまいました。彼女の目が見えなくなったことを悟ったビルは、彼女の大切なお金を盗み出します。気づいたセルマは金を返してくれるようにビルに懇願しますが、彼は妻リンダの前で一芝居打ち、セルマがビルの金を盗んだように工作します。怒ったセルマとビルがもみ合ううち、ビルの拳銃が暴発して彼は重症を負ってしまいました。観念したビルは、セルマに自分を撃つよう挑発。結局彼はセルマの金を握り締めたまま彼女に撃ち殺されていきました。セルマは、お金をチェコ出身の眼科医ポールコルニー医師に預け、放心状態のまま地元のアマチュア劇団へ。劇団員の通報で彼女は警察に逮捕され、裁判にかけられることになります。

検察は初めからセルマの卑劣な犯行と決め付け、彼女の周囲の人間を片っ端から証人喚問します。今までセルマの味方であった人たちは、一転して彼女の不利になる証言を連ねます。しかしセルマは、ビルと交わした“沈黙の秘密”の約束を守り、また息子が無事手術を受けられるようにするため、尋問には一切反論しませんでした。なすすべもなく彼女は死刑を宣告され、独房に収監されます。納得いかないキャシーとジェフは、セルマがジーンのための手術費用を貯めていたこと、その金はポールコルニー医師のところにあることを突き止め、セルマの裁判やり直しを請願。新たに弁護士も雇われ、セルマの死刑は回避されるかと思われましたが…。

「なぜジーンを生んだ。遺伝するとわかっていながら…」
「この手に赤ちゃんを抱きたかったの」

女であるならば、赤ちゃんを抱くという行為は、たぶん本能なのだと思います。セルマは遺伝性の病を患っているため、子供を産めば、その子供に命と同時に同じ病も与えてしまうことになります。そんなことは、セルマだってイヤというほどわかっているはず。それでも赤ちゃんが欲しかったという彼女の本心を、誰も責めることはできないはず。結局彼女は息子を生んだことで、夢の新天地となるはずであったアメリカで大変な苦労をし、息子のための手術費用を貯めるためだけに生きる結果になります。セルマにとっては、一見自業自得に見えるその人生も、息子ジーンを得たことで、ただ視力を失っていくのを待つばかりではない意味あるものになりました。しかし生きがいであった手術費用も、大金であったがために、親切な仮面を被っていた家主ビルに卑劣な手段で奪われる羽目になってしまいます。

物語の時代背景は60年代のアメリカですので、アメリカがまだ“挫折”を知らない頃でしょうね。豊かなアメリカ、夢と希望にあふれたアメリカ…。ビルはそんな“強くて豊かなアメリカ”の体現者として描かれています。警察官という聖職につき、正義と法を守り、市民を犯罪から守るヒーロー。おまけに彼は役職でも昇進間近でありました。美しい妻もいて、成功の証であるこぎれいな家もある。一体誰がビルの秘密―妻の浪費のために破産寸前であること―を想像出来るでしょうかね。彼はもちろん体面のために、妻を失って人生の落伍者という烙印を押されたくないばかりに、社会的弱者であるセルマを犠牲にしようとします。そこまで彼が追い詰められていたということでしょう。そういった意味では、ビルという男もまた“強いアメリカ”の哀れな犠牲者であるかもしれません。まあ彼の苦悩が、セルマの抱える苦しみの百分の一にも満たない事実には変わりがないですが。

アメリカにとって、チェコからの移民でシングルマザーで社会の最下層に属するセルマのような女が、一人闇から闇に葬られたからといって、痛くもかゆくもないこと。ビルが自分よりも貧しい女の金を盗む行為は、アメリカという大国の無意識の驕りともとれます。さらに言うなら、セルマが捕えられ裁判にかけられるシーン。検察側(アメリカ、強者)は、被告セルマ(移民、弱者)に対して最初から高圧的に対峙しますね。セルマによるビルの殺害は、移民(よそ者)に対して寛大で親切だというアメリカの威厳が脅かされたことだと捉えられたわけです。裁判は、アメリカ市民というマジョリティー対移民というマイノリティーの戦いの様相を呈してきます。結果はいうまでもなく、マイノリティーの敗北です。
トリアー監督はこのあたりの描写で、大国アメリカの偽善への嫌悪感を隠そうともしません。この作品がアメリカで公開された際にメディアの非難を浴びたのは、まさにこの部分ですね。あるいは、セルマが事件を起こすまでは、彼女の天真爛漫さを受け入れていた人々が、事件後手のひらを返したように警察や検察側の側に立った描写。しかし、こういった人間の醜い偽善を醜いまま描くことも、人間の本質を追及するこの作品には必要だったと思うのです。

そもそも、ビル夫妻を含むセルマの周囲の人たちがなぜ彼女を受け入れていたかというと、彼女が社会的弱者で疑うことを知らぬ純粋な女であったからでしょう。もっと言えば、セルマには子供のように幼稚な面があったため、周囲の人間は彼女に手を差し伸べることで、無意識のうちに心理的な優越感を感じることが出来たからです。自分よりも弱い者に施しを与えて自意識を満足させるのも、認めたくはないですが人間の本能的な欲求です。“施される”立場のセルマが犯した殺人は、“保護者”たる良き隣人たちの好意を裏切ること、悪く言えば犬が飼い主の手を噛むタブーを犯したということになるのですね。

しかしセルマが一方的にビル殺害の汚名を着せられ、抗弁も許されなかったのは、セルマ自身が真実をかたくなにしゃべろうとしなかったということも確かにあります。普通の人間ならばここで、『息子の手術費用を盗まれたからやったんだ』ぐらいのことは主張するはずですが、彼女はそれすら口を閉ざしてしまう。セルマ役を演じたビョークは撮影時、このようなセルマの描写は不自然だと監督に猛抗議したそうです。ええ確かに。でもセルマの名誉のために書くと、彼女のような弱い立場にいる人間が、殺人事件という極限状態でマジョリティーに勝利できる(つまりセルマの主張が通り、死刑判決が覆される)可能性はきわめて低い。あったとしても恐ろしいほどの長い時間がかかる。加えて息子ジーンの目の手術は一刻を争う状況です。なんとしても息子の手術費用を守り、無事に手術を行うためには、セルマ自身の裁判を長引かせている場合ではないのですよ。裁判で彼女が発言しても認められないとわかっていれば、いっそ口を閉ざしてあきらめの境地に達してしまった方が、現実の苦しみが幾分かは軽くなるはずなのです。それを、現実から目を背けた逃避行為だと糾弾することは簡単です。でも人間は、抱えきれない苦しみに直面すると、精神のダメージを回避するために無意識にそこから逃れようとするものです。あくまで現実と雄々しく戦おうとする行動は、もちろん立派な称賛されるべき理想ですが、実際に実行できる人は世の中にはそういませんよね。

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死刑判決後、新たな弁護士が彼女の救世主として現れますが、彼女を救うためにジーンの手術費用を使わねばならないのなら、彼女の取るべき道はひとつしかないでしょうね。キャシーたちが見つけた“強力な証拠”にしたって、セルマを苦しみから解放することにはなりません。それに、ジーンを失明という運命から救うことが、彼女の生きがいなのですから。もちろんその裏には、病の遺伝を知りつつ出産したという自身の負い目もあったでしょうが、それすら彼女は自らの生きる糧にしてきました。自分の病も度重なる不運もやがては命を落とすこともすべて受け入れた上で、“彼女の考える息子の幸せ”にすべて昇華させていく。ただ、その幸せのかたちに“息子自身の希望”が含まれていないことが、親の悲しいサガを感じさせていっそう哀れです。
キャシーやジェフに、息子になにか言葉をかけてやれと言われても、セルマはかたくなに拒みます。彼女はどんな苦境に陥っても、唯一“死”を選択することだけはしませんでした。それは彼女の尊厳であり誇りであったのでしょう。しかし同情の余地があるとはいえ、殺人を犯してしまった。そんな自分を彼女は許せなかったのです。おそらく自らを戒めるために、なにより大事な息子との接触を断とうとしたのではないでしょうか。例え、のどから手が出るほど息子からの愛情を欲していたとしても。ここでもやはり、息子自身が実際どう思っているかということは、彼女の思考の中には入っていません。親の愚かな思い込みでしょうか。でもあざ笑うなかれ、いつの世も親とは、自己犠牲と表裏一体の強烈な愛情を子供に向けているものなのですから。

この作品のレビューをいくつか読みましたが、セルマの行動を“利己的だ”と評する方が意外に多かったですね。セルマという人間像は、ある意味人間の根源的な姿を投影しているものです。後先考えず女性が子供を産むのは、究極の利己的行為。子供を育てること、子供を守るために自ら骨身を削って、時には命さえも投げ出すのも、やはり家族を含めた周囲の人たちのことを考えない利己的行為。でも、それもこれもすべてひっくるめて、“人間”という矛盾に満ちた生き物なのです。子供を愛していながら結果的に傷つけてしまう、本能的で純粋で尊くも愚かな“親の子への愛情” そのものなのです。

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セルマにとって唯一の心の拠り所となるのが、歌を歌うこと、ミュージカルの世界を夢想することです。劇中では、セルマが厳しい現実に押しつぶされそうになるたび、それから逃れるように空想のミュージカル劇が始まります。彼女は実際に、地元のアマチュア劇団で舞台に立つべく稽古をしていたりするのですが、空想の世界ではそれとは比較にならぬほど、生き生きと闊達に周囲のすべてを従えて歌い踊ります。彼女はそうすることで、現実の辛さから自分の心の自由を守っているのですね。空想の世界では誰も彼女を追い詰めたり傷つけたりはしない。だからこそ彼女は夢の中で思い切り自我を解放し、現実には口にすることも出来ない心からの本音をメロディーにのせてぶちまけるのです。哀れなのは、どの歌にも彼女の“自分を愛して欲しい”という心の叫びが込められていること。

連日の無理な労働で疲弊しきった彼女が、仕事上でミスしても、仲間は笑ってダンス。視力を失なっても、過去も未来ももう見たいものはすべて見尽くしたと歌うことで、闇の世界に落ちる恐怖ともおさらば。思い余って人を殺しても、死人も蘇って優しい赦しの歌を一緒にデュエットすれば、それで彼女の罪は贖われる。殺人犯として逮捕される恐怖にすくんでいても、周囲の人がみな警察と結託して敵と化していても、みんなでサウンド・オブ・ミュージックのナンバーを歌い踊れば万事OK。裁判で被告席に立とうとも、彼女に死刑への引導を渡す原因になろうとも、あこがれのミュージカルスターが目の前に現れれば、その場は一瞬にして華やかなタップダンス・ショーの舞台に早変わり…。
彼女が現実に追い詰められていくたび、空想のミュージカルは軽やかに楽しいものになっていきます。出口なしの悲劇の現実との落差が大きければ大きいほど、本来明るいはずのミュージカルシーンが、より哀れでいたたまれない気分をもたらしますね。ミュージカルは、セルマを過酷な現実から逃れさせる手段であると同時に、彼女がその辛さを克服して現実を受け入れていく過程でもあるのです。それが一番実感できるのは、やはりセルマ処刑のシークエンスでしょう。
セルマは死刑を間近に控えて、余りにも静か過ぎる独房に耐えられなくなります。彼女が空想を展開するには、ほんのちょっとした雑音でもいい、とにかくなにがしかの音がなければいけません。音がなければ彼女は歌うことが出来ない。歌えなければ、彼女は空想の世界に逃げることが出来ず、現実にいとも簡単に押しつぶされてしまう。彼女の孤独が、それほどまでに深く果てしないことが観客に示されます。彼女の周りには、まさしく母親の無償の愛情を与えてくれるキャシーや、見返りなど期待しない忠実な愛を捧げ続けるジェフという理解者がいるのですが、彼らでさえ、彼女の真の孤独には立ち入ることを許されなかったのですね。

セルマ最後のミュージカルは、3人目の理解者となった女看守ブレンダの機転によってもたらされます。1,2,1,2…という単調な2拍子の足音が、劇中最もエモーショナルで感動的な歌を生み出しました。ここに至ってセルマは、死を待つばかりの囚人達に赦しを施す天使の役割を演じます。観客としては、彼らに赦しを与えながら、彼女自身の様々な失敗や罪の数々も同時に浄化されていったのだと信じたいところです。現実は最後の最後までセルマに冷たく、首に縄が巻かれていてもなお、彼女に死の恐怖と戦うことを強います。彼女は息子への偽りのない愛情を、“人生というミュージカルの最後に流れるナンバー”として歌い上げました。皮肉にもこの絶唱は、かつて彼女自身が望んだ通りに最後まで歌われることはなく、従ってその場に居合わせた人々全ての心に、永遠に刻み付けられることになったのです。

歌半ばであっけなくセルマの肉体を抜け出した魂は、しかし息子ジーンが無事に失明の危機から脱したことで、充分に救われたと思います。彼女自身の人生はこういう形で終わらざるを得なかったでしょうが、その魂は厳しくわずらわしい現実からも解き放たれ、真に自由を得たのです。セルマの死は、周囲の人々には悲しみとやりきれなさと罪悪感を残しましたが、彼女にとってはこのうえなく幸せな幕切れであったと感じます。この身勝手さも、やはり人間のいとしさの一部であるのです。そしてセルマは、あどけない笑顔を浮かべて、何より愛する息子を永遠に見守っていくことでしょう。

この作品は2000年度のカンヌ映画祭において、スタンディング・オベーションのうちにパルム・ドールと最優秀主演女優賞(ビョーク)を獲得しました。また日本国内でも、21世紀映画史最初の傑作とまで評価されました。
しかしながら、ラース・フォン・トリアー監督と主演のビョークの間の確執はすさまじく、映画撮影時から、主人公セルマの人物解釈をめぐって何度も深い対立を見ました。作品が完成する頃には、ビョークは心身ともにボロボロであったそうで、タフで鳴らした彼女をして『もう二度と映画には出ない。女優はこれで廃業』とまで言わしめたとか。

そもそもビョークは、アイスランド出身のユニークなポップバンド“アイスキューブス”のボーカリストとして、世界の音楽業界にデビューしました。その後独立して、ソロアーチストとして稀有なサウンドをクリエイトしつつ、独特な歌唱法で世界中に熱狂的なファンを獲得するに至りました。そのユニークな音楽性同様、ご本人も相当に奇抜な性格の方だそうです。昔ドリフのコントで志村けんが着ていたような、白鳥の着ぐるみドレスをまとってレッド・カーペットを歩いたり、子供の写真を撮ろうとした女性記者に殴りかかったり。
映画をご覧になった方ならおわかりでしょうが、彼女の声はのどに痰が絡んだようなだみ声ですよね。しかしそれが呪術的な摩訶不思議なサウンドに乗ると、トランス状態に入った巫女のようないわくいい難い魅力で聴衆を引き込んでいくのですね。劇中でも、クライマックスに近づくごとにこの声の威力が増し、観客の目をセルマの魂に釘付けにしてしまいます。
トリアー監督が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」製作に取り掛かる際、主人公セルマを演じる女優につけた条件は、プロの歌手でなければならないということ。どうやら彼ははじめから、ビョークの特殊な声と、そのパワフルな印象とは裏腹な子供のようにあどけない顔が、おおいに気に入っていたようです。そして、劇中で流れるミュージカル部分の歌をすべて彼女自身が作るということで、ビョーク主演の話が決定しました。
ところがいざ撮影が始まると、撮影現場におけるトリアー監督の暴君ぶりは圧倒的で、数々の武勇伝を持つビョークでも一時現場放棄せざるを得ないほど、彼女は精神的に追い詰められていったそうです。そのおかげで、彼女はセルマを“演じる”のではなく、セルマ“そのもの”になったわけですが。セルマはある意味白痴に近い設定ですので、彼女より強烈な自我をもち己に自信も持っているであろうビョークにとっては、それはさぞかし苦痛を伴う作業であったと推測できます。
とにもかくにもこの作品は、おそらくトリアー監督のフィルモグラフィーでも最高傑作に位置づけられるでしょうし、今後彼がこれを越える作品を撮ることは難しいだろうと思います。彼は、セルマの物語を通じて、スクリーン上に人間そのものを写しとるという奇跡を達成したのです。そしてそれにはビョークという無二の存在が不可欠でした。2人が出会ってコラボレートできたということ自体が、奇跡だったのかもしれませんね。

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