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zoom RSS 破壊と愛情の最果て−「クラッシュ Crash」(David Cronenberg)

<<   作成日時 : 2014/04/20 22:21   >>

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スピルバーグ Spielbergとクローネンバーグ Cronenberg。
方やファンタジー、SFの分野において映画史に残る大ヒット作を連発。人間ドラマにおいても優れた作品をものにし、オスカーをも勝ち得る。もう片方は、いまだインディペンデントに作品を作り続けるアンダーグラウンドの雄。作品はすべて賛否両論の嵐をまきおこす。オスカーにはたぶん永遠に縁がない…。

この二人にはなんら共通点がないと思われます。片方は常に太陽に顔を向け日の光を浴びているのに対して、もう一方は、その足元からのびる影法師のように闇に身を置いているからです。
ところが、人と影法師は常に足元でくっついているように、このスピルバーグとクローネンバーグにも根っこの部分で共通するものがあるんですね。ひとつは、二人がユダヤ系であること。スピルバーグはそのルーツを「シンドラーのリスト Schindler's List」において昇華させましたが、クローネンバーグはすべての作品にそのルーツが彼の人生にもたらす陰りを反映させています。おそらく彼の最後の作品まで、その陰鬱さは消えることがないでしょう。そしてもうひとつは、故意か偶然か、同じ作家の作品を映画化していることです。その作家とは、J・G・バラード J. G. Ballard(ジェイムズ・グラハム・バラード)。上海生まれの英国のSF小説家(2009年4月19日に満78歳で没)です。

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バラードは少年時代を上海で過ごしたが、第2次世界大戦の開戦にともない、一家は一時期日本の捕虜収容所に入れられていた。このときの体験が基になり、後年「太陽の帝国」(1984年)が執筆されることになる。1946年に英国に戻った彼は、祖父母に後見されながら医学を学ぶためにケンブリッジ大学に進学。だがすぐに、専攻を英文学に変えてロンドン大学に編入。そこも中途退学した後は職を転々とした。そして1956年、サイエンス・ファンタジー誌上に発表した「プリマ・ベラドンナ」でSF作家としてデビューする。その後の活躍は目覚しく、“思弁小説”と呼ばれるニューウエイブSFを提唱し、持論に基づく新しいタイプのSF小説を書き続けた。「クラッシュ Crash」は1973年に発表され、日本ではぺヨトル工房から邦訳が出ている。他に「コンクリート・アイランド」「ハイ-ライズ High-Rise」と合わせた3作で、テクノロジーの行き着く果てと人間との危険な関わりを描出した(「コンクリート・アイランド」「ハイ-ライズ」「クラッシュ」で“テクノロジー3部作と呼ばれる)。破壊されていく社会や秩序を独特の高揚感で描く筆致は、ある意味読者の共鳴や追随を拒絶する冷厳さを持つ。暴走するテクノロジーへの抑えがたい欲求を抱えたまま、一方でそんな世界を破滅させることに美を見出すアンビバレンスは、SFというツールを用いて人間性の極北を追及したバラード特有の世界観である。

スピルバーグは1987年に、バラードの自伝的小説「太陽の帝国 Empire of the Sun」を映画化しました。まだ子役であったクリスチャン・ベイルを主人公に、バラード少年が様々な人たちと触れ合いながら成長していく姿を、わかりやすく感動的に描きました。伊武雅刀やガッツ石松など、日本人俳優もキャスティングされたことで話題になりましたね。

クローネンバーグはスピルバーグに遅れること約10年後、バラードの問題小説「クラッシュ Crash」を映画化のテーマに選んだのです。

ここで、最初にお断りしておきます。この作品は全体に性交シーンが延々と映し出されます。また、過去のクローネンバーグの作品のように、それがなにかのメタファーになっているというわけでもありません。ただひたすら生々しいシーンが続くのです。
そしてある種の人たち―精神年齢が幼い人、現実と虚構の区別がつかない人、情緒が不安定な人―は、観るべきではないと断言できます。それほどこの作品は人間のある部分を破壊すると思われます。

「クラッシュ Crash」(1996年製作)
監督:デイヴィッド・クローネンバーグ
製作総指揮:ジェレミー・トーマス
脚色:デイヴィッド・クローネンバーグ
撮影:ピーター・シャシツキー
音楽:ハワード・ショア
出演:ジェームズ・スペイダー(ジェームズ・バラード)
デボラ・カーラ・アンガー(キャサリン)
ホリー・ハンター(ヘレン)
エリアス・コーティアス(ヴォーン)
ロザンナ・アークエット他。

トロントでコマーシャルを製作しているジェームズ・バラードは、最近妻キャサリンとの間に倦怠感を覚えていた。お互い合意の上で、家庭の外で不倫セックスにふけっている。エクスタシーを得るためであるが、それもうまくいってない。
ある日、よそ見しながら車の運転をしていたジェームズは、車と衝突事故を起こしてしまう。相手の車は大破。運転していた男は亡くなり、助手席にいたその妻へレンは怪我を負う。ジェームズとヘレンは同じ病院に運ばれた。病院内でリハビリ中に、ジェームズはヘレンとばったり出くわす。ヘレンは女医で夫の死にも毅然とふるまっていた。しかし、ヘレンが連れていたのは顔にみにくい傷が走っている不気味な男で、ジェームズの怪我に異様な興味を見せ、事故当時の写真を彼に見せるのだった。
ジェームズは退院後、事故で使い物にならなくなった自分の車を見にいき、そこでヘレンと再会する。彼女も夫の車を探しに来たというが、様子が変だ。二人はジェームズの車の中で唐突にセックスを始めた。事故の衝撃を思い出しているうちに、猛烈な性的エクスタシーを感じたのである。
ヘレンは、自動車事故の衝撃に性的エクスタシーを覚える秘密の集団”クラッシュ・マニア”の会合にジェームズを誘う。その夜のイヴェントは、へレンが病院で連れていた男ヴォーンとスタントマンたちが再現する、ジェームズ・ディーンのポルシェでの死亡事故だ。彼らは事故の衝撃にもなんとか無事であったが、警察が到着し、会合は散りぢりに。
結局、ジェームズはヘレンとともに、ヴォーンの案内する家に向かった。そこには事故の後遺症で足に女陰のごとき裂傷を持つ、ギプスをはめたままのボンテージ美女ガブリエルをはじめ、クラッシュマニアたちが集まっていた。ヴォーンは彼らの教祖であったのだ。もちろんヘレンもマニアの一人。
ヴォーンはジェームズに、“車とエクスタシーについての研究”を手伝うように要請する。半信半疑ながら、ジェームズはマニアたちとともに、事故の再現ヴィデオなどを観てはそれを性的興奮につなげようとしていた。
ある日ヴォーンはジェームズの妻キャサリンを車で尾行する。キャサリンもそれに気づいており、その夜ジェームズとキャサリンはヴォーンの肉体を想いながら、官能にふけった。
ところがヴォーンは、夜毎路上でクラッシュを引き起こすための危険な運転をしており、とうとう歩行者を巻き添えにしてしまう。警察に拘束されたヴォーンを引き取りにいったジェームズとキャサリンは、車で夜のハイウェイをドライヴした。そこに大破した事故車を発見した彼らは、現場に近づいていく。その事故を起こしたのは、かの女優ジェーン・マンスフィールドの死亡事故を再現しようとしたクラッシュマニアの一人だった。
ヴォーンは仲間の死を悼むことなく、嬉々として事故現場をカメラにおさめていく。それをうっとりしたまなざしでキャサリンが見つめている。洗車場に入ると、バックシートでキャサリンはヴォーンと乱暴に交わる。それをバックミラー越しにながめるジェームズ。その夜、あざだらけとなった妻の体をジェームズはやさしく愛撫する。
ジェームズはガブリエルを連れて新車の展示場に行った。ガブリエルは足を開いて無残な傷跡を見せ付ける。なんとそのまま二人はカーセックスにふけった。
仕事中のジェームズにヴォーンから連絡が入る。自分が腹にハンドルの刺青を入れるというのだ。ジェームズにも腹に刺青を彫るよう命令する。そして二人はそれを確かめ合うように、車の中で愛し合った。

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ヴォーンはキャサリンの車にわざと傷を付け、死と隣り合わせの危険なクラッシュへ二人を誘う。ジェームズの運転する車とヴォーンの車は、車で込み合うハイウェイ上でお互いにぶつかり合う。後ろからヴォーンの車に追突されて、ジェームズはかろうじて路肩に停車することが出来たが、ヴォーンはハンドルをきりそこない、そのままバスに追突し、大破した車もろとも死んだ。ヴォーンの死を聞いて、ガブリエルとヘレンは車の中で慰めあうかのように愛し合った。
キャサリンとジェームズは、ヴォーンがかつてやっていたように、お互いの乗る車を互いにぶつけ合いながら、ぎりぎりのクラッシュを起こす。何度目かのクラッシュの後、キャサリンの体は路肩に放り出されてしまう。ジェームズは妻のもとに駆け寄り、二人はエクスタシーを迎えるのだった。



ミイラ取りがミイラになったとも言えないような最後です。結局、ジェームズとキャサリンはどちらかが死ぬまで車でのクラッシュを起こし続けるであろうし。もはやそうしなければ、彼らは性的に満足することはおろか、お互いへの愛情すらも確信できないのですから。

原作が発表されたのは73年ですが、車の量が増え続けている現状はより深刻になっていますよね。車が増えたために様々な弊害―環境破壊のみならず、燃料の石油を確保するための世界をまきこんでの戦争、また排気ガスによる健康破壊―も増え続けているわけです。この映画で描かれる人間たちも、ある意味この弊害の犠牲者といえなくもないでしょう。彼らは車によって精神を破壊されたのですから。

また、この作品を観ていて、格別いやな気分になるのは次の点ですね。

−現代にはモノがあふれるようになった。また、情報も洪水のようだ。かつて人間は、生きるために様々な問題と戦い、生活をより良くするために様々な努力をしたが、現在は何もかもが過剰である。よって、人間は向上するための努力を放棄している。そしてあふれるモノに囲まれた生活をするうちに、精神は退化し始め、ひたすらおのれの最も原始的な欲望を満足させるためだけに生を貪るようになる。そうなった人間はたいてい、その生の貴重なることを忘れてしまっている−

現代の消費社会を反映してか、主人公を含めたクラッシュマニアたちは、ただひたすら周囲のモノを食いつぶし続けます。車をあきれるほど壊し続け、やっと刹那の快楽を得たら、また次の快楽のために車を壊していく…。やがては仲間や自分の生命すらも壊す。そこに果たして望んだエクスタシーはあったのか。少なくともそれは創造的な行為とは呼べないでしょう。実体のないあやふやな“快楽”を得ることに呪縛されている、愚かな行為。現代人の精神はこんなにまで不毛になってしまったのでしょうか。この映画の登場人物たちを馬鹿だと断罪することは簡単ですが、現代人である限り、誰にだってその不毛の奈落に落ちる危険性があるのです。それに、“死”が“究極の快楽”と一重になっている(完全に同じではない)点も不本意ながら認めざるを得ません。大昔から密かに語られていることでありますからね。この映画を観ていると、原作者バラードのこんなつぶやきが聞こえてきそうな気がしてなりません。

−かつて、人間にとって絶対至上のものだと考えられていた家族や友達に対する“愛情”ですら、テクノロジーに名を借りた終わりのない破壊行為の上に危うく立つ“壊れモノ”に堕しているではないか−

結局はそんなところから、人間の根源的な闇を読み取ることができるのです。

クローネンバーグは、現代人の心の闇が、かくも身近なモノによって暴かれていくことをまるで楽しんでいるかのようです。劇中、マニアたちの象徴として現れるガブリエルという女。彼女は足に女陰のような傷を持っています。そして、事故の後遺症からいまだ足にギプスをつけていなければいけません。それがまるでSMの拘束具のように見えてしまうのです。

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本来なら悲惨なはずのその状態が、至上のエロティシズムでもって描かれる点。これが今回クローネンバーグが観客に仕掛けた危険きわまりないテーマの表れであったのです。それは、醜悪な怪物の造形や奇怪なオブジェなどよりももっと強烈なインパクトでもって、己の内面を凝視することを強制するのです。

「クラッシュ」は1996年度のカンヌ国際映画祭において上映され、賞賛とブーイングの嵐に包まれました。




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