House of M

アクセスカウンタ

zoom RSS “不毛”の定理−「テオレマ Teorema」

<<   作成日時 : 2009/10/19 00:35   >>

ナイス ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

「テオレマ Teorema」=「定理」。パゾリーニは一体なにを証明したかったのか。

「テオレマ Teorema」(1968年製作)
監督&脚色&原作:ピエル・パオロ・パゾリーニ Pier Paolo Pasolini
撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
編集:ニーノ・バラーリ
出演:テレンス・スタンプ(ある青年・客)
シルヴァーナ・マンガーノ(ルチア・母)
マッシモ・ジロッティ(パオロ・父)
アンヌ・ヴィアゼムスキー(オデッタ・長女)
アンドレ・ホセ・クルース(ピエトロ・長男)
ラウラ・ベッティ(エミリア・女中)
ニネット・ダボリ(アンジョリーノ・配達夫)他。

ミラノ郊外の大工場。そこで働く労働者たちに、イタリアのメディアが群がっている。彼らの雇い主たる社長が、突然彼らに工場の全権利を譲渡すると言い出したからだ。この突然の珍事に、マスコミは社長の真意をどう解釈するかで大騒ぎをしていた。
「これが現代の傾向だとしたら、全人類をプチ・ブルに変える第一歩ですね」
「この譲渡で社長が英雄となっても、ブルジョワジーはやはり誤っているといえるのでは」
「それともブルジョワジーは自己変革しつつあるのか。彼らが全人類と手を結べば、階級闘争はなくなるだろう」
「しかし社長はもうブルジョワジーではない。これは新たな問題だ。これに答えられる者がいるか」

どこまでも続く不毛の荒野。『故に神荒野より民を導きたまえり』

大工場主として、ミラノ郊外の高級住宅地に邸宅をかまえるパオロ。彼の一家は典型的なブルジョワ階級だ。妻ルチアは美しく教養のある信心深い完璧な女性で、つつましい娘オデッタ、陽気な息子ピエトロも、特に変わったところなどない素直な良い子供達だ。女中エミリアは田舎の出で、素朴で一家に忠実な女性である。彼らは、毎日平凡だがなごやかな暮らしを送っていた。…そう、“彼”が来るまでは…。

ある日、陽気な配達夫アンジェリーノが、発信人のない一通の電報を届けた。電文は「明日着く」。翌日、一家の親しい友人達を集めたパーティの席に、一人の見知らぬ青年がいた。まるで生まれたときからここにいたかのような自然さで。彼は、しなやかでほっそりとした体つきの美しい青年だった。見る者すべてを魅了せずにはおかない謎めいた微笑を浮かべて、彼はたちまちその場に馴染んでしまう。さすがに妻のルチアは不審に思ったが、別段誰も気に留めず、青年はそのまま邸宅に住みついてしまった。

画像

それからというもの、家族の間には異様な空気が漂い始める。それまで平凡ながら均衡の取れていた彼らに、度を越した興奮状態が訪れたのである。まずエミリアが、庭で読書する青年に対して突如激しい肉欲を感じた。敬虔な彼女は、そんな自分を恥じてガス管をくわえて自殺を図ろうとしたが、青年に間一髪で救われる。そして、彼に対しておずおずと身体を開こうとするエミリアを、やさしく愛し始めた。荒野の始まり。

ピエトロの学友たちが邸宅に遊びに来た。彼らに客室を占拠された青年は、ピエトロの導きで彼の部屋で眠ることになる。お互いに裸になってベッドにもぐりこむが、ピエトロは青年が気になって仕方がない。彼の身体に恐る恐る手を伸ばす。目を覚ました青年に恥じ入るピエトロを、彼は黙って迎え入れる。再び荒野に風が吹く。
別荘でランボーの詩集を手に取ったルチアは、気もそぞろに猟犬と戯れる青年を見つめる。彼が脱ぎ捨てた衣服を見るうちにえもいわれぬ肉欲を感じ、全裸になって逡巡の後にテラスに身を横たえた。後悔の念に襲われる彼女を、汗ばんだ青年の身体が抱擁したのはそのすぐ後であった。

絵画に興味を持つピエトロは、青年と一緒に画集を見つめ、子犬のようにじゃれあう。夫婦の寝室で明け方、パオロはなにかに憑かれるように目を覚ました。予感に導かれるまま、息子ピエトロの寝室をのぞく。そこで青年と息子が一緒のベッドで熟睡しているのを発見するのだった。パオロは自室に戻り、いつにな激しくくルチアの身体を求めた。再び吹く荒野の風。
その日から、パオロは病気になった。原因不明の病だ。彼にとっては、娘オデッタの看病よりも、青年の優しい眼差しがなによりの慰めになる。彼は青年にトルストイの短編を読んで聞かせる。
『この不愉快な出来事の中にも慰めはあった。ゲラーシムだ。ゲラーシムは若い百姓だった』
青年はパオロの両足を肩に抱え上げ、本の通りに優しくマッサージを施す。強い風が荒野を渡る。

パオロの病は癒え、彼と青年とオデッタが3人で庭で読書をしていた日のこと。青年がトルストイの続きを読む。
『彼は元の生活に。あのやさしい行為はもう期待できない。思いがけず来てくれた愛する人はもう戻らない』
オデッタが突然カメラを取り出し、おどける青年の写真をとらえる。そして彼を自分の部屋に導き入れ、自分が撮りためた写真を見せる。しかし意識は青年に向けられ、そのまま彼に処女を与えてしまった。

パオロは青年とドライブできるまでに回復した。パオロは思いのたけを込めて青年に愛を訴えた。彼は道徳観もなにもかも、青年のせいで混乱していたのだ。その混乱に決着をつけたいと願っていた。青年は車をポー河の土手に止める。草木も枯れ果てた荒涼とした土手で、彼は身を横たえてパオロを待つ。
『神我を欺きたまいて、我それに従えり。強き力もて、我に勝ちたまえり。我日々嘲りの的となり、人々我を指差す。我人々のささやきを聞き、恐れ四方にあり…』
旧約エレミア記の一節が、荒野を幻視するパオロの耳に聞こえてきた。
家族が昼食をとっていたある日、配達夫がひょっこり顔を出した。彼は子供のように飛び跳ねながら、エミリアに電報を渡す。エミリアから電報を受け取った青年は、家族に宣言した。
「明日、ここを発ちます」
家族の者は、皆それぞれに、青年に自己の心境の変化を訴えた。ピエトロはごく平凡だった自分が変わってしまったことを。ルチアは、今まで自分がどれだけ虚しい人生を送っていたかに気づき、青年によって愛に満たされたことを。オデッタは、父親しか見えていなかった自分に本当の愛を教えてくれた青年がいなくなれば、全くの孤独になってしまうことを。パオロは、秩序や所有に生きてきた自分のアイデンティティが徹底的に破壊されてしまい、元には戻らないであろうことを。
それぞれの訴えに耳を傾けながらも、青年は黙って去っていった。家族の落胆と喪失感を背に、ついに名前すら明かさずに。
その直後、暇をとったエミリア。彼女は故郷に戻り、突然村の広場のベンチに座り込んで断食を始めた。突然のエミリアの行動に、村の人々は驚きうろたえる。彼らが遠巻きに見つめる中、エミリアはかたくなに断食を続ける。ある日、ついに奇跡が起こる。病気にかかった子供にエミリアが接吻を与えると、子供の病がたちどころに癒えたのである。村人達は、彼女を聖女とあがめた。感謝を込めて村人はエミリアに食事を持ってくるが、彼女は食べようとしない。そのへんに生えている雑草で充分だというのだ。子供達は雑草をつみ、それだけで粗末なスープをこしらえた。

画像

ある晴れ渡った日、抜けるような青空の中、エミリアは宙に浮かんだ。教会の鐘が打ち鳴らされる。本物の聖女となったエミリアは、最後の行いとして、工事現場の泥の中に自らの身体を埋める。彼女の目からこぼれた涙は泥に泉をつくった。
「怖がらないで。私はここに泣くために来たの。涙は苦痛の涙ではないの。泉になるのよ」

オデッタには奇行が見られるようになった。部屋の真ん中で歌を歌い始めたかと思うと、もういない青年を探し求めるかのように、邸宅のあちこちをさまよい歩く。そしてベッドの上に身を投げ出した彼女は、そのまま原因不明の硬直状態に陥ってしまう。呼びかけても反応がなく、両手を固く握り締め、目はまばたきひとつしない虚ろな穴のようになる。どの医者にも見捨てられた彼女は、とうとう精神病院に入れられることになった。

ピエトロは家を出て、アトリエを借りた。抽象的自画像の製作に没頭する。自分のこっけいな幼稚さを隠すべく、新しい技法を開発するのに夢中になる。ガラスに様々なイメージを描きなぐり、他人にそれとさとらせずに修正を施すことを考え付くが、それは、永遠になにかを失ってしまった自分の哀れさを隠そうとするあがきにすぎない。結局彼がたどりついたものは、青年を思い出させる青色一色の絵であった。彼は敗北感から、その青に放尿する。

ルチアは、身体の奥にうずく欲望を抑えることが出来なくなった。車で街に出ては、青年の面影を求めて見ず知らずの若い男を拾い、身を任せる。しかし一時の激情が去れば、残るのは虚しさだけだ。色情狂のような生活に疲れ果て、彼女は野原の中にぽつんと立つ小さな教会の中に姿を消した。
パオロの所有する広大な工場群。彼はその全てを、そこで働く労働者に譲り渡してしまった。ミラノ中央駅。雑踏のなかで、一人の薄汚れた美しい青年に心惹かれるパオロ。その青年もパオロの眼差しに気づき、思わせぶりにトイレに入っていく。パオロは突如その場で全ての衣服を脱ぎ捨て、周囲の人々の驚きを尻目に全裸になった。彼はそのまま、砂塵ふきすさぶ荒野に足を踏み入れていく。

画像

見渡す限りの不毛な火山。全てを失った彼自身を象徴するかのようだ。パオロはどこまでも全裸でさまよう。天を仰ぎ、絶望的に咆哮しながら。


“現代生活における前後関係の中に、大きな寓話的伝説が常に存在していることに、私は常に心を奪われてきました。「テオレマ」の中で寓話の形で説明しようとするのは、異議をさしはさむことができないと同時に、理性的な分析すらすりぬけてしまうこの聖なるものの存在です。もしキリストが再来したとしたら、スキャンダルになるでしょう。彼は彼の時代にもそうであったし、今日生きていてもそうなるでしょう。「テオレマ」の中に出てくる見知らぬ男は、イエスでもなければエロスでもないのです。具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類をその誤った安泰から抜け出させる冷酷な神のエホヴァの使者なのです。正統派的な考えを持つ人たちやブルジョワ階級の人たちが、生きるというより草木のように無為に世を送っている良心というものを破壊する神なのです。”―パゾリーニ「テオレマ」完成後のインタビューより抜粋

イタリアに生まれた映画作家ピエル・パオロ・パゾリーニは、その絶頂期に衝撃的な死を迎えるまで、常に時代を挑発し続けた男でした。
彼は、マルキストかつ無神論者という立場から、資本主義的思考、既成の権威や古い道徳概念、宗教観などへ真っ向から反論を掲げました。それを数々の作品の中で、寓話的な表現として昇華させていったわけですが、追随を許さぬ実験的・先鋭的映像は、容易にスキャンダラスな話題を振りまいてしまいます。ですから残念なことに、彼は表現者として正当に評価される前に、“異端児”の烙印を押されてしまった感もあります。イタリア文化のスキャンダル・メーカーにして、政治的言動を芸術の表現衝動と結びつける“造反者”のイメージ。
しかし、詩作から始まったパゾリーニの創作活動の底には常に、社会の最下層でもがく労働者たちへの深い共感にあふれています。彼らが日々対峙する貧困、孤独、理不尽な暴力に対する静かな怒り。翻って、彼らに貧しさを強いる富裕階級への憤りは、作品に政治的イデオロギーを込めるだけではあき足らず、実際に“抗議者集団”の先頭に立たざるを得ないほど、強いものだったと理解できます。

この作品が製作された1968年は、あらゆる面で従来の思想や文化が変革を迎えようとした激動の時代でありました。イタリア国内でも5月革命の余波がくすぶっていましたし。おそらくそうした時代背景と密接に結びついているのでしょう、この「テオレマ」も、今観ると良くも悪くも“時代のうねり”を強烈に感じさせる作品になっています。時代を先取りすることに優れたパゾリーニが、この世界的な“時代の変容”を作品に焼き付けたいと願うのも自然ですね。彼のフィルモグラフィーの中でも、「アポロンの地獄」と「王女メディア」に挟まれて、この作品は一種特殊な位置にあることがわかります。

さて「テオレマ」は、当初パゾリーニ原作の小説として発表されましたが、彼はなんと同時進行で映画の製作も始めてしまいます。そして映画は完成し、1968年9月にローマで公開されました。ところが、キリストを思わせる謎の青年がブルジョワジー一家全員と性的関係を結ぶという、頓狂な題材とあからさまな性描写が世間に衝撃を与えてしまいます。結果1週間で上映禁止処分を受け、検閲と表現の自由の大論争をイタリア中に巻き起こすことになるのです。揉めに揉めた末に翌年再公開され、イタリア国内で大ヒットを記録しました。たった一本の映画でここまでの大騒動を起こしてしまうところが、パゾリーニらしいとも言えますね。

「テオレマ」は「定理」という意味です。パゾリーニは、繰り返し作品で取り上げてきたイデオロギーの総括を、このタイトルに込めました。一人の象徴的・絶対的存在によって、ブルジョワジー一家の欺瞞があっという間に暴かれ、彼らの美しくて固いはずの家族の絆が一瞬にしてバラバラになる様を、非常に意地悪く描いています。青年とのセックスによって初めて自我に目覚めた富裕階級の一家が破滅の道をたどる一方で、彼らに滅私奉仕してきた労働者階級の女中は、奇跡を起こす“神聖”なる存在へと変化していくというオチは、わかりやすい皮肉ですね。
“自我”によって従来の概念を崩壊させた父パオロが、同時に資本主義の象徴である大工場を労働者に譲り渡してしまうこと。これは、ひょんなことで崩壊する危険性を秘めた資本主義への警告ともとれます。
また、美貌と教養に恵まれた完璧な母親ルチアが、自我と性の開放に目覚めたと同時に、その神聖性を失ってしまう様も多分にオイディプス的です。これは、パゾリーニが追ってきたもうひとつのテーマ―母親との関係性―の再現だと考えられるでしょう。
そして娘オデットも息子ピエトロも、自我の目覚めをもってしても、大人への“通過儀礼”を無事に終えることはできませんでした。彼らの精神は、強烈過ぎた自我に焼き殺されてしまうほど、脆弱だったわけです。彼らのそうした末路は、富裕階級ひいては資本主義社会の基盤の軟弱さをあざ笑う告発とも解釈できます。

画像

このように、様々なメッセージが読み取れる作品なのですが、この際、パゾリーニの政治的立場と主張は脇に置いておきましょう。ここでは、この作品で描かれる“家族性の神話の崩壊”に注目したいのです。親子の絆、家族の絆はなににも増して強いものだと、私達は信じているわけですが、この作品で描かれるプチ・ブル家族はどうでしょう。たった一人の風来坊によってたやすく均衡を崩され、自分達が信じていた幸せも壊れてしまいます。
つまり皮肉なことに、家族の各々が、抗うことの出来ない“神”(=テレンス・スタンプ演じる青年)に触れることで、今までの生活や幸福が偽りのものだと知らされるのですね。前述したように、彼らは青年が象徴する“神”によって各々の本性を悟り、本当の自我に目覚め、結果、その神様が保障しているはずの美しい “家族愛”が、虚飾だとわかるのです。これは究極のパラドックスでしょうね。

“神”が家族の下から去ったあと、彼らは文字通りバラバラになっていきます。父も母も娘も息子も、従来の道徳の上に成り立っていた健全な精神を破壊され、そこからさらに立ち上がる力もなくします。あたかも当時の世相を映す鏡のように、古い道徳観の中でもその根幹をなす家族観が、徹底的に壊れたのです。
ラストでは、資本主義の虚飾をはぎとられた全裸の父パオロが、まるで現代を象徴するかのような荒野をさまよいます。絶対的力をもって人々を支配してきた概念が崩れ、頼るべきものもなく、混沌とした精神的カオスに突入するであろう未来社会を私達はどうやって生きればいいのか。この作品は、その答えを考えることを激しく観客に要求します。家族の絆すら危うくなりかねない “現代社会”では、家族といえども個々に自立し、サバイヴすることを求められます。その覚悟ができているのか、と観客に問いかけてもいるのですね。
つきつめれば、“家族”も、異なる個を持つ人間の寄せ集めだと認識しなければならない。これからは、家族だからと甘えることも許されない時代になっていく…。実は、この“家族性の崩壊”を誰よりも憂い、悲しんでいるのは当のパゾリーニ自身ではないかと思うのです。

画像

映画の具体的な描写に触れると、登場人物の台詞も聞こえない無音のシーンがあったと思うと、場にそぐわない不協和音のようなジャジーな音楽が唐突に鳴ります。また、家族全員をとらえるのは遠く引いた固定カメラ、人物一人一人の動きを追うのはその身体に肉薄するハンディカメラで、長廻しのゆったりした画面とブレブレの画面が交互に出てくるのですね。おかげで作品全体を通して、常に不穏な緊張感が満ちることになりました。人物各々の心象風景を代弁するかのように、街や田舎や工場の風景が映し出され、現実を描写するシーンに寓話的なシーンが乱入する構成も、観る者の混乱に拍車をかけるでしょうね。
映画公開時に問題視された性的シーンですが、今観るとそんなにあけすけな描写ではありません。すべて暗示的ですね。まあ、だからこそ、不埒な想像を刺激する(笑)作品だとも言えますが。

すべては、謎の青年を演じたテレンス・スタンプの類まれなる存在感に負うのです。彼なくしては、この作品は成り立たなかったと思いますよ。女性性も男性性も感じさせる、抗いがたい性的魅力。その存在自体が“セックス”を強烈にアピールするくせに、本人は微塵もいやらしさを感じさせない。誰と交渉を持っても、彼自身は一点の曇りもなく透明なまま。こんな掴みどころのない俳優は、後にも先にも彼一人でしょうね。…いや待て、30代中ばぐらいのヴィゴ・モーテンセンならどうでしょう。彼なら、この天使と悪魔の二面性を持つ役をこなせたかもしれません。

最後に。この暗鬱たる作品には、数々のパゾリーニ作品に出演している二ネット・ダヴォリが、ゲスト的な扱いで顔を見せています。彼は、パゾリーニが好むタイプのハンサムではないのですが(笑)、笑うとぬいぐるみみたいな愛嬌があります。重く、シリアスで戦闘的になりがちなパゾリーニの作品の中で、彼はその愛すべきキュートさで一服の清涼剤的存在となっているのですね。実際「テオレマ」でも、満面の笑顔で女中エミリアと観客に対峙し、作品に癒しを与えてくれています。

テオレマ [DVD]
紀伊國屋書店
2004-05-22

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
“不毛”の定理−「テオレマ Teorema」 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる