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zoom RSS The Lost Beatleー「スチュアート・サトクリフ―5人目のビートルズ」

<<   作成日時 : 2014/08/15 10:10   >>

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スチュアート・サトクリフ Stuart Sutcliffe

1940年6月23日生まれ
1962年4月10日没(享年21歳)
英国スコットランド、エディンバラ出身
本名:スチュアート・ファーガソン・ヴィクター・サトクリフ

スコットランドのエディンバラで生まれ、マージーサイド州フイトンで育つ。美術教師の母を持ち、自身も画才に恵まれ、将来を嘱望されていたという。一家が移り住んだリヴァプールでは、教会の聖歌隊にも入り、アートと音楽の両方に親しんでいた。奨学金特待生として、わずか16歳で進んだリヴァプール・アート・オブ・カレッジでジョン・レノンと出会い、共同生活をするほど深く友情を育む。楽器は全く弾けなかったが、ロックに傾倒していたレノンの影響を受け、 1959年の展覧会に出展した絵が売れた金でベースを買う。それがビートルズのメンバーとしての活動の始まりである。
1960年8月、初期のバンドのマネージャーを務めたアラン・ウィリアムズの手引きで、ビートルズの面々はハンブルクでの巡業演奏のためドイツへ赴く。インドラ・クラブを手始めに、小さなクラブでの毎晩6時間にも及ぶギグの仕事である。どぎついネオンの瞬く不夜城ハンブルクは、地元を出たことのなかったメンバーにとっては衝撃だった。ストリッパー、ゲイ、売れないミュージシャン、水夫、外国人、観光客のごったがえす、人種の坩堝だったのだ。しかしバンドの苦労は報われ、カイザーケラー・クラブではライブが大好評を博す。だがクラブのバンドに対する待遇は最悪で、メンバーは皆バンビ・キノというポルノ映画館で寝泊りする始末だった。彼らは休憩時間には、隣のクラブで演奏するトニー・シェリダンの天才的ギタープレイと歌を聴きに行ったという。彼らはやがて一緒に演奏するようになった。バンドは毎晩何時間も演奏し続け、みるみるうちに実力を発揮していったが、一方では音楽業界の悪い一面にも毒されることになる。覚醒作用のあるアンフェタミンと、若いミュージシャンに群がるグルーピーたちである。
サトクリフは、クラブに演奏を聴きにやってきたデザイナーのクラウス・フォアマンを通じ、写真家アストリッド・キルヒャーと知り合う。フォアマンは、バンドのレコード・ジャケットを作ろうと目論み、アート担当のスチュアートに接近していたのだ。当時キルヒャーはフォアマンの恋人で、美術学校で写真を学びながらランボーやヴェルレーヌを愛読するインテリ学生として、かなり知られた存在であった。ビートルズのライブが行われたクラブで引き合わされたサトクリフとキルヒャーは、文字通り一目で情熱的な恋に落ちる。その2週間後、キルヒャーはバンドの写真を撮っている。まだ世界に羽ばたく前の、初々しいビートルズの姿だ。フォアマンは運命的な恋に落ちた彼らを理解し、自ら身を引く。
キルヒャーは、母親の勧めもあってサトクリフを自宅アパートに寝泊りさせた。その屋根裏にあった広い部屋を彼のアトリエとして貸し出し、絵を描くのに必要なものも買い揃えた。画架を作ってくれたいとこの協力もあって、彼が絵を描く環境は整ったのである。彼は創作に夢中になるあまり、バンドのリハーサルを休むようになったが、レノンとの絆が断ち切れることはなかったという。ハンブルク界隈の芸術家たちとミュージシャンの橋渡し役であり、本を読み、文章も書くインテリでもあったサトクリフへの、レノンの尊敬はいや増すばかりであったのだ。レノンは自分にはない天賦の才をサトクリフに認め、嫉妬し、憧れていた。そんな2人の緊密な関係が、ときとして同性愛の疑いを引き起こすこともあったほどだ。しかしその2人の間にキルヒャーが割り込んだことで、レノンはサトクリフに暴力を振るい、後にそれがサトクリフの脳内出血の遠因になったとの見解もある。その後もレノンとサトクリフの友情に変わりはなかったが、サトクリフとバンドの間に少しずつ溝ができ始めたのは事実である。
2人は出会って2ヶ月あまりで婚約したが、メンバー全員労働許可証を持っていなかったことが原因で国外退去処分を受ける。不法就労と映画館放火の疑いも追加された。すべてバンドの素行の悪さが撒いた種だ。1人残ったサトクリフは、キルヒャーを伴って1961年2月末にいったん英国へ帰った。彼女を家族に紹介するためである。もっとも、キルヒャーはサトクリフの母親には嫌われたようであるが。2人は 3月15日にハンブルグに戻ってきている。バンドはリヴァプールでしばらく活動した後、4月1日、再びハンブルク巡業に乗り出す。
ハンブルクでは、キルヒャーがその地で活動するミュージシャン達にアーティスティックなアドバイスを行ったりして、大きな影響力を持つようになっていた。もちろんビートルズにとっても、彼女は母親であり創作の女神でもあったのだ。キルヒャーはハンブルクのミュージシャン全員にとって、あこがれの存在だった。ポール・マッカートニーは、そんなキルヒャーと婚約していたサトクリフに嫉妬したこともあったという。
バンド活動から離れたがっていたサトクリフであったが、レノンは彼を引き止めていた。サトクリフが特別扱いされることに不満を募らせていたマッカートニーは、彼の演奏が下手であることを理由にメンバーチェンジを要求する。キルヒャーは、ハンサムなサトクリフの印象をより引き立たせるため、彼にマッシュルーム・カットなる独特の髪形を施した。前髪を下ろし、耳を隠すようにカットしたものだ。まるでモップのようなその様子に、メンバー一堂大笑いしたものだったが、これは後に初期ビートルズのトレードマークとなっていく。バンドは徐々に名声を勝ち得ていき、独自の音楽スタイルを確立していった。
しかし、愛するキルヒャーがアーティストであったこと、また彼女を取り巻くアーティスティックな環境にも刺激されたサトクリフは、この巡業の後、改めて画家の道を志すためにバンドを脱退する。彼にはビートルズは必ず成功するとわかっていたが、メンバーとしてではなく、バンドのアート面を支える人間として関わりたかったのだ。このため、当初ギターを担当していたポール・マッカートニーがベースを受け持つことになったという。
その後のサトクリフは、キルヒャーと同棲しながらハンブルク州立芸術大学の奨学生として学ぶ。学位をとるためだ。当時のハンブルクは、戦後からの復興に成功し、活気に満ちた街であった。2人の生活は苦しかったが、サトクリフは街の人々のエネルギーをキャンバスに活写していく。それは彼の心を通して描かれた生々しい抽象画であり、激しい感情に突き動かされるままに写し出された彼の人生そのものであった。彼は短期間のうちに多くの作品を制作し、ドイツでも画家としての大いなる第一歩を踏み出すことに成功した。
一方リヴァプールに戻ったビートルズは、レノンの考えでマネージャーを一新、ブライアン・エプスタインを迎える。エプスタインは、クールなイメージだったバンドの雰囲気を明るく親しみやすいものに変え、新ドラマーにリンゴ・スターを加入させて新生4人組のビートルズを猛烈に売り込んでいく。バンドが世界的な大成功を収めるのは目前であった。
ところがサトクリフは、1961年の夏頃から体調の悪化を訴え始め、同年末からは激しい頭痛に悩まされるようになる。美術学校で倒れ、一時記憶が途切れるほど症状が悪化していった彼を心配し、サトクリフの母親は息子を英国の専門医に診せる準備をしていた。しかし彼は帰国せず、あくまでハンブルクの専門医の見解に従う。医者はただの偏頭痛であると断言し、一笑に付していたのだ。その後一時体調が良くなるものの、再び昏倒し、病状は安定しなかったという。それでも出来うる限り、それこそ死の直前までアトリエにこもって絵を描き続けたが、ついに1962年4月10日、容態が急変して救急車で病院に搬送される途中、アストリッドに抱かれながら息を引き取った。21歳の短すぎる生涯であった。
妹のポーリーン・サトクリフは兄の死因に大きな疑念を抱いた。彼女は後に兄の検死を要求し、その結果、頭蓋骨の陥没とおそらくそれが要因の脳内出血が、兄を死に至らしめたという事実を得たのだ。兄の頭には外傷もあったという。折りしもビートルズが3度目のハンブルグ公演を行おうとしていた矢先の出来事であり、メンバーの間に走った衝撃は大きかったという。特にサトクリフと親しかったレノンの苦悩は深かった。彼は精神的な支えを失い、かつ自責の念に狂い、その後はポールや後妻に迎えるヨーコ・オノに依存していくことになる。後に発表されたビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」には、サトクリフへの追悼からハーモニカ演奏が取り入れられ、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットには、“artist/former Beatle”という肩書きでサトクリフの写真も登場した。
1993年に製作された映画「バック・ビート」(イアン・ソフトリー監督、スティーヴン・ドーフ主演)では、ビートルズという大きな歴史のうねりに飲み込まれた不運な画家サトクリフの肖像がクローズアップされ、再び彼に脚光が当てられるきっかけになった。バンドの中心人物であったジョン・レノンとの固い友情を軸に、奇しくもその親友と、運命の女キルヒャーを巡り揉める羽目になったサトクリフのジレンマと人生の選択を、ビートルズ誕生秘話を絡めて描いた好篇である。彼がなぜ“5人目のビートルズ”と呼ばれるのかがよくわかる内容であったが、劇中では彼の死因を酒場でのリンチに求めており、これに関しては事実と異なるという意見もあるようだ。この作品が公開された後、日本でもサトクリフの回顧展が開催されたことは記憶に新しい。

“彼女の話をすると、想いが溢れて止まらない…”―スチュアート・サトクリフの手記より

「スチュアート・サトクリフ―5人目のビートルズ Stuart Sutcliffe - The Lost Beatle」(2005)
監督:スティーヴ・コール
出演:アストリッド・キルヒャー(恋人/写真家)
ポーリーン・サトクリフ(スチュアートの妹)
クラウス・フォアマン(アストリッドの元恋人/デザイナー/ミュージシャン)
トニー・シェリダン(ミュージシャン)
アラン・ウィリアムズ(初期ビートルズのマネージャー)
ロッド・マレー(大学時代のスチュアートの友人)
ドナルド・カスピット教授(美術評論家/歴史学者)

BBC が制作した、スチュアート・サトクリフに関するドキュメンタリーです。さすがにBBCらしく、偉大なる英国バンド、ビートルズのハンブルク時代の秘話を織り交ぜながらも、決してビートルズ礼賛に終わらぬシビアな内容でしたね。以前にも同じサトクリフを主人公にした映画「バック・ビート」を観てはいたのですが、さすがにサトクリフの実妹ポーリーンと、その婚約者キルヒャー、ハンブルク時代のビートルズを詳しく知るフォアマンといった面々の生々しい証言は、事実の重みを伝えて余りあります。

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“奴は自己中心的だが忠実な友人でもある。きっと子供の頃に充分な愛情を与えられず、そのまま大人になって困惑し続けているのだろう…それがジョンだ”

このドキュメンタリーの半分は、ビートルズという巨大なイコンがどのように形作られていったかの、興味深い考察であります。初期ビートルズでは、レノンとロクにベースも弾けないサトクリフが中心になって曲を書いていたこと、マッカートニーはそれに露骨に不満を抱いていたことが明らかになります。サトクリフは天才的な画才に恵まれていましたが、あいにく楽器の演奏には不慣れでした。それでもバンドの音楽面を支配していたレノンへ絶大な影響力を持ち、レノンが彼の死後、“抽象的芸術家”であったヨーコ・オノにあれだけ依存する素地を作っていたわけですね。ポーリーンは、どうやらサトクリフとレノンの同性愛を確信していたようですが、個人的には、彼らの関係は互いへの憧憬の念という要素が強かったのではないかと思います。サトクリフにはレノンにはないアート感覚があり、レノンにはサトクリフには望めない音楽的センスが備わっていました。

さて、バンド内の力関係の変化に即応して、サトクリフ自身の内面も変化していきます。刺激に満ちた街ハンブルクで、バンドは厳しい下積みを経験し、ついでに悪い癖も覚えて急成長していくわけですが、サトクリフはキルヒャーの存在を通じて、絵を描くことこそ自分の本領であることを思い出すのですね。ドキュメンタリーの残り半分は、芸術家として再出発したサトクリフの希望と苦悩にスポットライトを当て、彼の人生からは切っても切り離せない存在のキルヒャーの証言に、重きが置かれていきます。

“この2週間で満足のいく作品が作れた。批評に負ける気がしない。試験には最高傑作を出す。どの作品も1年前よりずっといい”

ハンブルクのキルヒャーの家族や芸術家仲間に支えられ、サトクリフの前途は洋々としていました。新たに芸術大学にも入り直し、画家として独り立ちすることを夢みていました。彼の胸のうちには、おそらく成功しつつあったビートルズのことがあったに違いありません。あのままバンドに居残っていたとしても、早晩演奏家としての限界にぶち当たっていたでしょうし、それはプライドの高いサトクリフには許しがたい失敗になったでしょうから。彼は己の本分で古巣と競い合って、台頭になることを望んだはずです。
ところが原因不明の頭痛が死の病を招き寄せ、また医者の診断ミスも重なって、彼は知らないうちに死に向かっていくことになります。サトクリフ自身の手記とリヴァプールの母親に宛てた手紙からは、急速に憔悴していく彼の様子と、そんな現状に焦りを隠せない苦しみが伺えて痛ましいほどです。

“今日学校に復帰して来週から絵を描く。年末までに必ず展覧会を開いてみせる”

“具合が悪くて寝たきりだ。歩いてもすぐに倒れる。痛み止めがなければ頭が痛くて眠れない。おかしくなりそうだ。薬代だけでもばかにならない。みんなよく世話をしてくれる。でも痛い。支離滅裂なことを書いてすまないが、もううまく書けないんだ”

“しっかりしなきゃだめだ。頑張らないと…あらゆる薬を試したがまったく効かない。もう4日も寝ていない。いらいらして、痛くてつい叫んでしまう。薬を飲んでいるのにどうして眠れないんだ?治らない。うまく書けないのが辛い。この痛みには耐えられないし、アストリッドも看病に疲れきっている。痛くて死にそうだ…”

キルヒャーは、サトクリフの死の間際の様子を、悲しみを押し殺して証言しています。事実だけを淡々と語る達観したようなその姿からは、神様からの贈り物だとさえ感じた最愛の伴侶を目の前で失った痛みが染み出してくるようです。サトクリフが亡くなり、彼女は魂の半分を同時に失くしてしまったのでしょう。彼の死という最悪の出来事の前では、その死の原因が何であろうと、もはや取るに足らないと思えてしまうのではないでしょうか。
対して、ポーリーンの捉え方は若干違います。やはり、肉親の死に際に立ち会えなかったという苦悩と後悔の念が、彼女をして兄の死因を突き止めさせるという行動に走らせたのでしょうね。このドキュメンタリーを観る限り、彼女はレノンが兄を殴ったことがその死の遠因であると信じている様子でした。それが事実かどうかはもはや確かめようがなく、また分かったところで、悲しむ人間の数が増えるだけのこと。ポーリーンは画家として大成できなかった兄の遺した作品を保管し、それを世間に公表し、ビートルズの歴史の陰に消えた男としてではなく、偉大な才能の持ち主として兄を再評価して欲しいと願っているのでしょうね。

「スチュアートは私の人生、そして青春だった。今でも彼の写真を枕元に飾っているの。そして彼の誕生日が来ると、その前に花を飾るわ。彼のような人には、もう二度と出会えないと思う」―アストリッド・キルヒャー
「素晴らしい才能があり、またそれを表現する術にも長けていた。彼がどんな人間だったか、なにも記録が残っていないのが残念でならない」―クラウス・フォアマン
「今では兄を弟のようにも感じるの。そばにいて、彼を守ってあげたかった」―ポーリーン・サトクリフ

サトクリフとキルヒャーの、一生に一度の恋の激しさは、彼の遺した諸作品から充分に伺えます。キャンバスからは、生きることへの情熱と絵を志す己の信念の強さ、それに従う喜びがあふれ出すようです。絵とはすべからく、自身の内面を率直に語るものであるということがわかりますね。確かにサトクリフの人生は短すぎたかもしれませんが、その中身は非常に濃密であったとも言えるでしょう。

しかし、サトクリフが周囲の人々に残していった“芽”は確実に育っていきました。キルヒャーは、サトクリフの死後もメンバーと交流を保ち、初期のビートルズの生き生きとした姿を写真集に収めていきました。彼らのセカンドアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」のジャケット用の写真も手がけ、ハーフ・シャドー(顔の半分だけに光を当て、もう半分は陰にする)という撮影手法も編み出したのです。レノンは亡き親友の面影を求めて、キルヒャーの助言に盲目的に従い、その傾倒ぶりは最初の妻シンシアが呆れるほどであったそうです。
またフォアマンはアルバム「リボルバー」のジャケット・デザインを手がけ、デザイナーとして成功を収めました。それだけに飽き足らず、サトクリフと同じようにベースを抱えて、レノンとヨーコ・オノのバンド、プラスティック・オノ・バンドに参加したことも有名です。

キルヒャーは写真家の仕事に没頭することで、またポーリーンは、画家としての兄への再評価を勝ち得るために奔走することで、それぞれ失ったものの痛みを乗り越えました。片や思い出の中にその存在をしまいこみ、片や大々的にその存在を世間にアピールして。対照的な方法でサトクリフの死を受け止めた彼らの胸には、同時に、芸術に邁進し続けた彼の姿が永遠に刻まれているでしょう。それはとりもなおさず、多くの人に愛された好青年スチュの実像に結ばれていくのです。

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