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zoom RSS 赤と白の愛のかたちー「赤い風船 白い馬 Le Ballon Rouge/Crin Blanc」

<<   作成日時 : 2015/11/15 04:37   >>

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映画を撮る上で最も大切なのは、映像を3次元で捉えることだと言われる。しかしもちろん、いくら3次元的に撮影された映像であろうと、私たち観客にとってはそれは平面のスクリーン上で展開される、あくまでも2次元の世界でしかない。映像を記録するカメラのレンズもまた、2次元の世界に属するものだからだ。それでも映画史が始まって以来、世界中の映画作家たちは、2次元の世界に3次元のリアリティを持ち込もうと努力に努力を重ねてきた。真っ白で平坦なスクリーンに陰影ある“空間”を生み出したい、それが叶わないのならば、せめて観客の目にその奥行きが伝わるように演出したい、ということだ。その渇望はなぜ生まれるのか。普段私たちが生きているこの世界が、とりもなおさず3次元の美に満ちているからに他ならない。


「白い馬 Crin Blanc」(1952年製作)
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:アラン・エムリイ
パスカル・ラモリス

南フランス、ローヌ川が海へと注ぐカマルグという荒れ地に野生の馬たちが住んでいた。リーダーは誇り高き白い馬。その勇敢さで群れを守り、率いていた。ところが、近隣の牧童たちが野生馬を多数捕獲するようになると、このひときわ美しい白い馬は彼らの垂涎の的となった。調教された白馬は高く売れるからだ。そこで、この白い馬を捕まえるべく牧童たちは奔走したが、知略にも長け俊足でもある彼を捕らえられる者などいなかった。浅瀬を平原を、馬と人が疾駆する。この追走劇を怖々と眺めていたのは、漁師の息子であるフォルコ少年だった。絹糸のような金髪と利発に輝く明るい瞳、カモシカのように伸びやかな肢体を真っ白な衣服で覆った少年は、同じく全身一点の曇りもなく真っ白な馬に目を引きつけられる。結局馬を取り逃がした牧童たちは、忌々しげに吐き捨てた。
「あの馬を手なずけられる者がいるなら、そいつに馬をくれてやる!」
少年はその言葉を額面通りに受け止め、いつか必ずあの白い馬を自分のものにしようと誓った。浅瀬沿いに建つ粗末な木の家には、亀と遊ぶ幼い妹と、長年の漁師生活で強い日差しに焼かれた髪の老いた父親が少年を待っていた。少年は父親の肩にもたれてうたた寝しながら、淡い夢を見る。白い馬にまたがった自分が、どこまでも続く平原を疾走するのだ。それは素晴らしい夢だった。
だがその夢が突然目の前に現れる。追っ手を卷いた白い馬が、浅瀬の中に佇んでいたのだ。首には捕獲用の縄の切れっぱしがぶら下がったまま。少年は意を決してその縄の端を掴んだ。驚いた馬は猛然と浅瀬を走り抜ける。少年は水の中を引きずられながらも、決して手を離しはしなかった。全身泥だらけになり、息も絶え絶えな少年は、しかしその縄がただ一つの命綱だと言わんばかりにしがみついている。やがて足を止めた白い馬は、この奇妙な少年に半ばあきれ、次に興味を抱く。少年はヨロヨロ立ち上がると、おそるおそる馬の首に手を伸ばしてみた。それが彼らの初めての触れ合いとなったのである。
少年の家に連れてこられた馬は、少年とその妹の心のこもった歓待を受けた。少年は汚れた馬の身体をきれいに清め、妹は自分の身体と同じ大きさの飼い葉を持ってくる。つかの間の心安らぐひととき。だが白い馬は、かつての仲間たちが牧童に連れられていくところを見てしまった。馬は少年のことは大好きだったが、仲間のことも忘れられなかったのだ。彼は少年のつないだ手綱を引きちぎり、仲間の元へ駆け戻って行った。牧童たちは驚いたが、自発的に戻ってきた白い馬をこれ幸いと囲いの中に閉じ込める。しかし群れには、既に新しいリーダーが誕生していた。もちろん白い馬は気に入らない。早速新リーダー馬に決闘を申し込み、馬2頭による壮絶な闘いが始まった。後ろ足だけで立ち上がり、前足を相手に向かって振り上げる。たてがみを振り乱し、互いの首筋に噛み付く。辺りにもうもうと立ち込める砂埃が、その闘いのすさまじさを物語っていた。やがて勝利した白い馬は、猛り狂う本能のままに囲いを壊して再び逃走する。成す術もなく白い馬の脱走を見送った牧童たちは、今度こそ誰が馬の主人であるかを彼に知らしめるため、卑劣な手段を用いて捕獲に臨んだ。一面の葦に火を放ったのだ。炎はあっという間に馬の周囲を取り囲み、煙は彼の喉を痛めつける。さすがの白馬も命運が尽きたかと思われたとき、フォルコ少年が馬の元へ駆けつけた。慌てる牧童たちを尻目に、裸足のまま鞍もつけずに馬の背にまたがった少年は、一気に炎の輪をくぐり抜けた。そして平原の彼方に向かって走り始める。見渡す限り遮るもののない平原で、少年と白い馬は野うさぎを見つけた。追っ手は既に振り切っていた彼らは、しばしその場で休息を取る。だが、牧童の矜持を賭けて馬の捕獲に躍起になる追っ手は、再び彼らの前に立ちふさがった。白い馬は、今や主人であり親友でもある少年を背に乗せ、力強く大地を蹴りあげる。彼の白いたてがみが日差しにきらめき、風にたなびくたびに2人の周りに鋭い光の矢ができる。矢は馬と少年を流星のように包み、追っ手の目を眩ませた。白い馬は浅瀬を駆け、草原を駆け、荒れ地を駆け、海岸線を駆ける。もう彼らの前には雄大な海が広がるばかりだ。追っ手は彼らを追い込もうとさらに迫ってくる。白い馬は、少年を乗せたまま一瞬の躊躇もなく海へ身を躍らせた。その黄金の足を今度は水の中で蹴り、水平線の彼方へと駆けてゆくのだ。驚いた牧童たちは慌てて少年に声をかけた。その馬はくれてやるから戻ってこいと懇願する。だが少年はそれに耳を貸さず、白い馬と共に、馬と人間がいつまでも平和に暮らせる楽園を目指した。
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フランスにアルベール・ラモリスという異色の映画作家がいる。彼への対外的な評価がどういうものか詳しくはわからないが、私自身は、彼もまたスクリーン上に3次元世界を展開しようと奮闘した人物であろうと思っている。彼は、映画がカラーの時代を迎える以前から、ヘリコプターにカメラを搭載して雄大な俯瞰ショットを作り出し、あるいは仰角ショットを効果的に挿入して、スクリーンに集まる観客の視線を変幻自在に誘導してみせた。また、移動する対象と共にカメラを走行させて“ものが動く”様を演出し、台詞ではなく生々しい映像そのものに物語を語らせることに腐心していたのである。
今作に於ける3次元的映像表現の中でも白眉は、白い馬が人間の手を逃れて浅瀬や平原を疾駆するシークェンスと、どこまでも平坦な地平をひたすら疾走していたカメラがふとした拍子に映し出す、馬と少年がぽつねんと佇む光景である。遮るものもない平原に立つ真っ白な馬と、彼にまたがる金髪の少年の美しさは、“色彩”という感覚がないはずのモノクロ映像の中で、純血の証である“白い色”をひときわ強烈に感じさせてくれる。またフォルコ少年の真っ白のシャツとその幼い妹の金髪も含め、モノクロの特色を最大限に生かした効果であろう。中盤のハイライトでもある、白い馬と新しい群れのリーダー馬との決闘シーンもすさまじい。2頭の馬が、その筋肉を最大限に駆り立てて後ろ足で立ち上がり互いの首筋に噛み付く様は、足下からもうもうとたちこめる砂埃の効果もあり、思わず後ろに退きたくなるほどの迫力だ。馬はきちんと調教されているとは思うが、フォルコ少年が白い馬に延々引きずられるハードなシーンといい、今作の撮影は過酷を極めたのではないかと案じてしまう。つまりそれほど、今作の躍動する映像がリアルを極めているという意味である。
さて今作は、誰の所有にもならぬことを望んだ誇り高い魂の物語といえる。牧童のものになることを拒否した白い馬と、牧童に屈服することを拒否したフォルコ少年の。馬を駆り、思うがままに辺りを闊歩する牧童は、さしずめ力の象徴であろう。彼らは理不尽な暴力で周囲を屈服せしめ、歯向かうものにはさらなる制裁を加えようとする恐怖の存在だ。しかしながら、彼らが白い馬にこれほどまでに執着したのも、裏を返せば“需要”に応えるためといった事情があったためだろう。結局、白い馬と少年を追いつめたのも、この需要と供給という資本主義構造だったのかもしれない。もちろん牧童たちの中に、反抗されればされる程その対象をぜがひでも服従させたいと望む、人間の歪んだ本能があったことは否めない。“白”というのは無垢の象徴でもあるわけだが、奇しくも共に白をまとった馬と少年が、命を投げ捨てでも彼ら社会の垢に穢された牧童たちから逃れたいと思ってしまうのも、仕方がないことかもしれない。
問題のラストの解釈については、見方によって様々だと思われる。海の荒波の中を泳ぎだした白い馬と少年は、そう遠くない未来にやがては海の藻くずと消える運命にあると考えるのが普通ではあるだろう。しかし私は、このラストは非常に希望に満ちたものだと感じたし、どんなに愛し合っていても同じ世界で暮らすことの叶わない彼らにとって最良の選択であったと思う。おそらく彼らは共に“天国”という名の楽園に行くのだろう。それを悲劇ととらえるのか、それとも幸福ととらえるのか、難しいところではある。彼らにとっての最大の悲劇は、社会がその存在を許さぬ愛情で結ばれたということだ。この物語を、マジョリティによって社会からはじき出されてしまったマイノリティの悲哀と捉えれば、また違った感慨も生まれるに違いない。
今作は、1953年度カンヌ国際映画祭グランプリおよびジャン・ヴィゴ賞を受賞した。


「赤い風船 Le Ballon Rouge」(1956年製作)
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:パスカル・ラモリス
シュザンヌ・クルーティエ

モンマルトルの朝は早い。朝日がまだ眠そうに地平線上に留まっている頃から、人々は往来に出て一日の始まる支度をするのだ。
学校に向かう途中であったパスカル少年は、朝露に濡れる街角で真っ赤な風船が街灯に絡まっているのを見つけた。するすると身軽に街灯に登った少年は、そのまま風船のひもを握ってバス停に赴く。バスを待つ人たちは、少年が持っている赤い風船が邪魔で、少年をバスに乗せてもくれなかった。案の定少年は遅刻したが、学校でも先生は風船を持ち込むことを許してくれなかった。そこで、彼は学校の近くで働くおじさんに大切な風船を預け、学校が終わるとすぐ引き取りに行った。少年と風船は、途中で親切な人たちの傘に入れてもらいながら街中を歩いて帰途についた。だが、せっかく苦労して家に連れ帰った風船を、少年の母親はすげなく窓の外に放り出す。こうすれば風船は、フワフワとどこへなりと飛んで行くだろうから。ところが不思議なことが起こった。風船はひもを押さえられていなくとも、少年のアパルトマンから離れないのである。窓の外から少年を見守るように、ずっとその場に留まり続けている。少年はそれを見て、赤い風船にかけがえのない友情を感じるのだった。
それからというもの、赤い風船はパスカル少年の行くところ全てについてまわるようになる。少年の通う学校にさえついてこようとするものだから、少年は風船に聞き分け良く振る舞うよう言い含めなければならないほどだった。それでもいざ学校に着いてしまえば、まるで賢い飼い犬のようにパスカルの後を追っかける赤い風船に、学校の子供たちは大はしゃぎ。風船は、自分を捕まえようとする教師の手を逃れ、とうとう窓から教室の中へ侵入した。厳格な校長先生は、学校の風紀を乱すパスカル少年をすぐさま小部屋に閉じ込めて事なきを得ようとする。風船は、意趣返しに今度は校長先生の後をついて廻り、何度となく他愛ないいたずらをしかけた。赤い風船にいいようにからかわれる校長先生の姿は、街中では道行く人の好奇の視線を集めるのだった。つまらない一日が終わり、パスカル少年は赤い風船と一緒に家路に着く。途中で立ち寄った蚤の市ではしたり顔で品物をためすすがめつ、公園では赤い風船が通りがかった青い風船に恋をしたり。しかし、風船と少年の穏やかで幸せな日々は長くは続かなかった。
パスカル少年とその忠実なる友人である赤い風船の噂は界隈に広まっており、街中の悪童たちの関心を引くのに格好の対象となった。悪童たちは大挙して帰宅した少年と風船を待ち伏せし、彼らを引き離そうとする。少年と風船は街中の狭い路地を駆け、裏道に逃げ込み、悪童たちから逃はれようと頑張ったがついに力尽きる。街外れの野原に連れてこられた風船は、動けないように固定された上で、悪童たちが面白がって投げつけるパチンコの石の標的となった。パスカル少年の悲痛な叫びも虚しく、石は風船を直撃し、その柔らかいゴムの皮膚を突き破った。空気が抜け、地面に倒れ伏すようにしぼんでいく赤い風船。悪童の一人が足を振り上げて風船を踏みつぶすと、あんなに鮮やかに美しい赤色であった風船が、見るも無惨なゴムの固まりとなってしまった。だがこのとき、ある奇跡が起ころうとしていたのだ。
子供たちが手に持っていた風船や、数えきれない程の家に置かれていた風船たち、公園で売られている風船、それこそ街中にある色とりどりの風船が皆突然自らの意思を持ち、持ち主の手を離れて行く。あるものは空高く浮かび、またあるものは一列に並んで街の路地を飛び抜け、目指すはパスカル少年のところだ。風船たちは、一人野原に取り残されていたパスカル少年を取り囲んだ。少年は突如集まってきた膨大な数の風船に興奮し、無我夢中で彼らを手に取った。少年が風船のひもをしっかりつかむと、風船たちはゆっくりゆっくり上昇し始めた。少年の身体はやがて地上を離れ、風船たちと共に空高く舞い上がる。抜けるように青い空に向かって、少年と風船たちはどこまでも飛んで行くのだった。
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くすんだ色合いのパリの街並みの中で、真っ赤な風船がフワフワと漂う様はそれだけでファンタジックな夢を思わせる。10年前実際に目にしたパリの早朝の風景を思い出すと、今作の街並みが醸し出す独特の色合いのリアリズムに感じ入る。セピア色というのでもなく、かといって鈍重な灰色でもない。朝露に濡れた石の歩道から立ち上る瑞々しい香りと、石造りの建物の合間から見える空の色の美しさに誘われるように広がる街は、確かに多くの人々の生活を優しく内包する“色”を持つのだ。今作はラモリス監督初のカラー作品であるが、彼が映像の“配色”においても、3次元的リアリズムを尊重していたことがよくわかる。また、パリならではの曲がりくねった狭い路地や階段の連なり、広場や土手など、高低差のある土地を3次元的に捉えたカメラも相変わらず素晴らしい。前述したように、映画とは2次元のスクリーン上で堪能する3次元の芸術であり、ラモリス監督が縦横無尽にパリの街並みを映しとっている今作を観ると、その感慨を一層深くするものだ。
「白い馬」同様、今作でもほとんど台詞はない。しかもナレーションすら排除された状態で、映像内では時折サイレント期のコメディを思わせる微笑ましい描写が展開される。赤い風船を偶然拾ったパスカル少年と、意志を持った風船とのコミカルなやり取りや、少年に意地悪をする大人への風船の意趣返しなどがそれだ。しかし、そういった楽しいシーンもやがては、“奇妙な風船を使って周囲をたぶらかす”と誤解された少年の受難劇へと変貌する。奇跡など信じない極めて散文的な学校の教師や親や、風船と友愛を育んだ少年に嫉妬する悪童たちによって、赤い風船はリンチを受けやがて死に至ってしまうのだ。そう、悪童たちが風船を縛り付けて石をぶつけようとするシーンは、社会の中の異分子を排除しようとするマジョリティの憎悪に他ならない。このシーンは、実はかなり悲惨な意味を暗示するものではないかと思っている。ここでもまた、 “風船と少年の間に生まれた愛情”に象徴される社会とは相容れない関係性が、いかに当の社会によって迫害を受けるかといったモチーフが繰り返されているのだ。赤い風船を愛したパスカル少年にのみ、最後に奇跡が訪れるのも偶然ではない。真の無垢を持っている彼だけが、この世ならぬ力に選ばれたとも考えられる。
街中の風船が意志を持って少年の下に集まるシークェンスでは、ヘリコプターからの俯瞰ショット、あるいは大空を見上げる仰角ショットが美しい。真っ青な空に色とりどりの風船が舞う様は、パスカル少年の心だけでなく観ている私たちの心をも浮き立たせ、直前の哀れな死の光景で痛んだ胸を慰撫してくれる。風船たちは少年を軽々と支えて空の散歩へと誘うのだ。これは、老若男女を問わず多くの人々が心に思い描く楽しい夢だろう。従って、この極めてファンタジックなラストシーンは、おそらく大多数の人たちがこれをもってハッピーエンドだと解釈されるだろう。しかしながら、私にはそう思えない。パスカル少年は、赤い風船の魂が乗り移った街中の風船たちに誘われ、空高く舞い上がり、きっとそのまま地上には戻ってこなかっただろうと感じるからだ。なんとなく、少年はあのまま赤い風船の待つ天国へ向かったのではないかと思えてならない。

今作は、1956年度カンヌ映画祭で短編部門でグランプリを受賞し、同時にルイ・デリュック賞も授与された。




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