House of M

アクセスカウンタ

zoom RSS 愛を請う人―「さすらいのカウボーイ The Hired Hand」Part2

<<   作成日時 : 2016/07/19 19:24   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

“西部劇はアメリカの神話なんだ”−ピーター・フォンダ


時間の海の中に埋没してゆく記憶は、時として痛みをそぎ落とすため、幻のような陶酔を自ら纏う。そうすることで、人は昔を懐かしく思い起こすことができるのだ。記憶の断片は、まるでオーバーラップのように幾重にも重なり合い、その輪郭を徐々になくしていく。見つめていると、それは人が輝く陽光の中に佇むのにも似て美しく、また指と指の間から砂が流れ出てゆくのにも似てとても儚い…。



もし、再発された「さすらいのカウボーイ」のDVDをご覧になる機会があったら、ぜひとも特典映像に付されたピーター・フォンダ(主演・監督)のインタビューに目を通して欲しい。彼の隣には音楽を担当したブルース・ラングホーンがおり、一緒に日本人インタビュアーの質問に答えている。インタビュー自体はディレクターズ・カット版DVD(国内版)用に収録され、フォンダが話す内容も日本人の観客に向けて発せられたものになっている。このインタビューの中でフォンダは、今作の製作・撮影秘話や作品に込めた思い、映画が公開されてから経過した30年の月日の間に彼が遭遇したエピソードなど、余すところなく語ってくれている。
完成した映画そのものは、1971年の初公開当時、「イージー・ライダー」の再現を狙ったスタジオによってズタズタにカットされ、彼の思惑とは全く異なる形に作り変えられてしまった。批評家受けは良かったが、“現代的な感覚で解釈された西部劇”は、やはり当時の観客の理解の範疇を超えてもいたのだろう。公開に向けての宣伝活動もほとんど行われず、結果として興行成績も惨敗、作品はそのままお蔵入りの憂き目に遭ってしまった。しかし映画は、完全なる忘却の彼方へ追いやられたわけではなかったのだ。その後30年近い月日を経てようやく、作品への再評価の機運が高まった。“知る人ぞ知る秀作西部劇”は、ファンの口コミでじわじわとその存在を世界に知らしめ、作品を本来あるべき形に戻したいというフォンダの強い願いを叶える原動力になった。そして2001年、かつてスタジオによって無理やり付け加えられ、フォンダが歯噛みして悔しがった無駄なシーンを全て取り除き、ブルース・ラングホーンの未使用のスコアを全編にわたって大幅に追加したディレクターズ・カット版が完成した。ちなみに、フォンダによれば、今作に関してはディレクターズ・カット版が少なくとも4バージョン存在するらしい。つまりそれほど、スタジオ側の作品への理解と製作側の思惑が噛み合わなかったということであろう。フォンダが満を持して完成させたディレクターズ・カット版は、2001年ベネチア国際映画祭、トロント国際映画祭、ロンドン映画祭で上映され、スタンディング・オベーションを得る。2002年8月からは、日本でも初公開 (1972年)からちょうど30年ぶりに、デジタルリマスタープリントにてリバイバル上映が行われた。今の時代にこそ、より深い共感と理解を得られるであろう今作は、ようやく最も幸せな形で観客に受け入れられることになったのである。
画像

60 年代、アメリカ映画界を席巻したニュー・シネマ。その潮流の底辺に根付き、当時も今も多方面に大きな影響を与え続ける映画「イージー・ライダー」で、監督のデニス・ホッパーと共に主演と製作をこなしたピーター・フォンダは、1971年、念願の初監督作に着手した。スコットランド出身の脚本家アラン・シャープ(他の作品に「ワイルド・アパッチ」「バイオレント・サタデー」「ロブ・ロイ/ロマンに生きた男」など)が書き上げた寓意的な西部劇「さすらいのカウボーイ」に大いに魅せられ、これを記念すべき処女作に決めたのである。
製作に当たっては、フォンダは優秀なスタッフとキャストを揃えたいと願い、望む限り最高の才能を獲得した。「イージー・ライダー」で撮影監督を務めたラズロ・コヴァックスと同郷のヴィルモス・ジグモンド(他の作品に「ロング・グッドバイ」「未知との遭遇」「ディア・ハンター」「イーストウィックの魔女たち」など)は、コヴァックスと共にアメリカに亡命した後、主にCM撮影の分野で活躍していたという。フォンダはコヴァックスからジグモンドを紹介されて起用したのだが、実はジグモンド自身は本格的な映画撮影の経験は今作が初めてであった。それどころか、今作で白眉のスコアを提供している、伝説的なセッション・ミュージシャンにしてフォーク・ロック・ギターの名手、ボブ・ディランの名曲“ミスター・タンブリンマン”のモデルでもあるブルース・ラングホーンもまた、映画音楽を手がけるのは今作が初めての経験。セット・デザインを担当したローレンス・G・ポール、ロバート・デ・ヴェッセルも、今作を足がかりに本格的なキャリアを歩み始めた。衣装担当のリチャード・ブルーノも同様だ。つまりフォンダは、情熱と才能に溢れるものの、経験はゼロに等しいスタッフと共に処女作製作に乗り出すことになったのである。監督をはじめ、スタッフ陣が未知数の人材ばかりであったせいか、スタジオからは厳しい予算の下での制約の多い撮影を強いられる。しかし逆にそれが幸いし、若いスタッフならではのやる気と臨機応変のアイデアで、小道具や衣装、セットといった物語の屋台骨を支えるディテールにおいても、従来の西部劇にはない“リアリティ”を追求することができたようだ。
実質上たった3人のキャラクターで語られるストーリーであるゆえ、キャスティングにも細心の注意を払わねばならない。フォンダは、「カサブランカ」のハンフリー・ボガードにも匹敵する魅力を持ったアーチ役を、サム・ペキンパー監督の諸作品で頭角を現したウォーレン・オーツに依頼する決意をしていた。当時オーツは高額のギャラを取る“Aリスト”俳優であったが、フォンダ自身が受け取る予定のギャラを削ってオーツの分に上乗せしてでも、彼の起用にこだわったという。また、西部劇においてはおそらく初めて、女性の置かれた立場とその内面の複雑さを抜群の説得力で表現したハンナ役には、主にブロードウェイで活躍していた玄人好みの女優ヴェルナ・ブルームをキャスティングした。
余談だが、ブルームは何年もの間今作を嫌っていたという。フォンダとも断絶した状態が随分続いたそうだ。ブルームは、19世紀のアメリカにいたであろう農場の女のたくましさと、失った夫への愛に揺れるデリケートな女心の双方を繊細に表現して素晴らしい。誰もがブルームの演技を絶賛したというのに…。
フォンダによると、今作ではリアリティを重んじるため、女性キャストには一切のメイクを禁じた。ブルームに用意された衣装も、19世紀の農場で暮す女性らしく野暮ったいドレスのみ。どうやらこれが、ブルームの逆鱗に触れたらしい。彼女本来の美しさが貴重な出演作に残らなかったことが、悔やまれてならなかったのだろう。

必要最小限の台詞で的確に表現された、自由と束縛を同時に求めてしまう人間の本能、あるいは人生や愛情に対峙する男女の決定的な差異、しかしながら永遠に相交わらない2つの性が寄り添わねば、また生きることも叶わないという人間の根源的な哀しみ。答えの出ない深遠なテーマのエッセンスを抽出した脚本は、既に西部劇のカテゴリを超え、まさしく“アメリカの神話”と呼ぶにふさわしい。ゆっくりと心の襞を慰撫してゆくギターの音色、大西部の自然美を一幅の絵画のように写実的に捉えつつ、あらゆる事象が儚げにオーバーラップする映像は、観る者を瞑想の世界にいざなう。遥か昔に失った淡い記憶の残像を、胸の痛むような郷愁と共に追うような感覚か。不思議な浮遊感と酩酊感に翻弄されているようで、実は隅々まできちんと計算された演出のリズム。美しい風景の中に溶け込むように佇む登場人物を、時にはその肌の質感まで感じ取れる程クローズアップするカメラは、ハリーやアーチ、ハンナが見せる表情の繊細な変化までも見落とさないのだ。今作は、映画という多種複合表現形態が要求する全ての感覚を、優しく刺激してくれる。

“この作品は、現代アメリカの病理についても言及している、示唆に富んだ寓話なんだ”

今作に登場する“カウボーイ”は、“現代人”と変換されても作品のテーマを婉曲しないだろう。それほど、今作は普遍的な内容であると思われる。作品全体に重くのしかかる諦念感、あるいは一種の遁世感の故に、今作が製作された当時のアメリカの世相を色濃く反映しているといった論調も多い。確かにベトナム戦争以降、アメリカは初めての挫折を経験し、“強い者が勝つ”という従来のイノセンスを失った。今作でも、主人公ハリーは仲間を殺した仇を討ち取ることはできなかったし、彼もまた自身の信ずるところの正義に従った挙句、いともあっけなく殺されてしまう。正義を掲げる者が必ずしも勝利しないという認識は、遠く現代にも通じる哲学であろう。

“この映画は、人生のふとした隙に心弱くなってしまった男が、それでも善を成そうと彼なりに努力した物語であり、そんな男が、過去に失ったふるさとへ帰りたいと願っても、もう二度と元通りにはならないことを知る物語でもあるんだ”

「なぜ帰って来たの?」
「放浪に疲れたんだ」

映画冒頭で、ハリーたち3人の流れ者が、川で金髪の少女の水死体を発見する。後にハリー自身にも同じぐらいの年嵩の娘がいることがわかるが、その少女の死体は、ハリーの記憶の中に生きている娘ジェニー…つまり、7年の放浪生活の中で彼自身が次第に膨らませていった“故郷”への過度な幻想そのものだったかもしれないのだ。夢を追い、“ここではないどこか”へ行こうとして故郷を捨てた男にとって、結局は帰る場所など何処にもなかったのである。“ふるさとは遠きにありて想うもの”というが、夢破れて逃げ帰ってきた者が望む通りの“ふるさと”など、実際には存在しない。遠く離れて初めてそのありがたみがわかるように、故郷というものも各々の幻想の中にしかない儚い残像でしかないのだ。
この川の光景は非常に象徴的で、少女の生もハリーの未来の生も飲み込みながら、これからも変わることなく流れ続けるであろうことが暗示される。いみじくも、フォンダはこの川を“三途の川”と表現していたが、ハリーの帰郷が自身の死をもって終わりを告げた後も、その不在を埋めるかのようにアーチがハンナの元に戻ってくるシーンで、この川の永続性がストーリーの布石になっていたことがわかる。まるで輪廻転生のように、ハリーという大切な命を失っても、ハンナやアーチの人生はそれでも続いていくのだ。
あてもなく、不確かな未来の可能性に賭けてさすらうことは、家庭を守る責任や社会のしがらみに束縛されることを嫌う人間の、いわば本能のようなものだと思う。男だけではない、女にだって放浪願望は常にくすぶっているのだ。しかしながら、全てを捨てて外界へ飛びだしたとしても、甘いロマンティシズムは早晩霧散する。ハリーがさすらいに見切りをつけて帰郷する姿は、青春時代のイノセンスの終焉を物語っているようにも感じられる。

“この物語の主人公はハンナとアーチなんだ。観客は、分別あるアーチを通じて作品の神話的側面を理解し、彼がきっと彼女にふさわしい夫になるだろうことを予感しながら映画を観終える”

ハンナは葛藤を抱きつつもハリーを愛し、彼に傍にいて欲しいと願うが、残念なことに、彼女がハリーに寄せる愛情とハリーがハンナに抱く愛情は、根本的に違っている。そう、今作では、男同士の絆のあり方と男と女のそれが、本質的に如何に違っているかがひとつの焦点にもなっているのだ。ハリーは、10歳も年上のハンナには、母親に対する思慕に近い愛情を抱いていたと思われる。一方ハンナの方は、ハリーが帰郷してから徐々に見せるようになった、初々しい“女”の表情からも窺えるように、夫と自身の間に対等な男女の関係を見出している。彼女が、自分よりも長い時間をハリーと共に過ごしたアーチに、あからさまな嫉妬を剥き出しにしたことも当然の成り行きであろう。ハリーにも言えない女の生理、暗い秘密を、アーチには赤裸々に語ってみせているのも、いわば、ハリーを巡って対立する女同士の牽制だと言える。
画像

ところがハリーは、ようやく取り戻したハンナすなわち家族の愛情と、アーチとの友情を計りにかけ、いともたやすく“男同士の友情”を選択してしまう。そんな男を夫に持った妻としては、たまったものではない。ハンナの怒りと慟哭は多くの観客の共感を得るだろう。今作の凄みは、これまでの西部劇では無視されていた女性の生き様を丹念に描いた、“女性映画”であるという点だ。古い価値感の形骸化、60年代特有の時代の無常感といったテーマを凌駕する勢いで、内面的にも、また外面的にも、ハンナが対峙する様々な苦しみが提示される。映画が封切られた当時、世のフェミニストたちはこぞって今作の“マッチョイズム”を攻撃したというが、それは製作陣の真意を全く理解しない的外れな非難である。ただ、ハリーにとって、危機に瀕したアーチを救出に行くという行為は、彼自身の信じる正義、すなわち自分のプライドを守ることを意味していただけだ。家族を守り、家族のために働くのも正義ならば、友情を守ることも同じぐらい正義であったのだ。ここに、ハンナとハリーの愛情の決定的な違いがある。酒場で首を撃たれたダンが、いまわの際に“ママ!”と叫んでいたシーンは印象的だ。ハリーもまた、彼にとっての“母親”であるところのハンナを、最期の瞬間に思い浮かべたと思われる。男が女に求めるものは、今も昔も“母性”に尽きるのではないか。
ために、今作の“男女の愛”の部分は、ハンナとアーチの間に流れる感情の変化が担っている。アーチがハンナとハリーの元を去った理由は明白だ。アーチは、おそらくハンナの人となりをハリーよりも深く理解し、大いに惹かれるところがあったのだろう。ハリーとの友情と、ハンナへの淡い恋慕を計りにかけ、彼は自らが身を引く結論を出したのだ。
ハリー亡き後、まっすぐハンナの元へ帰ったアーチは、あれからどうなっただろうと考える。きっとハンナは、最愛の夫を結果的に奪ってしまったアーチに、心からの罵詈雑言を浴びせるに違いない。そしてアーチは、ハンナの涙が枯れ果てるまで、黙したまま彼女の怒りや悲しみを受け止め続けると思う。“記憶”はいつしか風化し、その持ち主の意思に応じて美しく姿を変えてゆく。ハンナにとってのハリーの記憶も、いずれ痛みは薄れ、懐かしさのみを思い出せるまでに変容していくはずだ。そのときこそ、彼女はアーチを誠実な夫として受け入れるのだろう。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス
愛を請う人―「さすらいのカウボーイ The Hired Hand」Part2 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる