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zoom RSS 消え去った愛の記憶―「エドワードII (Edward II)」

<<   作成日時 : 2014/04/24 23:32   >>

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コロス―「世界がこれほど嫌っている者をなぜ寵愛なさるのか?」
エドワードー「全世界を併せたよりも、彼が私を愛してくれるからだ」


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エドワード2世(プランタジネット朝第6代イングランド王) Edward II


1284年4月25日生まれ
1327年9月21日没
在位1307年〜1327年

イングランド屈指の名君と歌われた“長脛王”エドワード1世の四男として生まれる。1301年、ウェールズ地方の反乱を鎮めるため、エドワード1世によって歴代の皇太子としては初めてプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けられた。1284年、父王崩御に伴い、エドワード2世として即位。幼い頃から共に過ごして愛人関係にあったピアース・ガヴェストンをフランスへの追放から呼び戻す。
エドワード2世はガヴェストンの関心を得るために、彼にコーンウォール伯、枢密院議員、宮内庁長官などの高い役職を次々と与えた。ガヴェストンはやがて寵臣として国王の治世にも口を出すようになり、エドワード2世下のイングランドは国庫も傾いて荒廃の一途を辿る。議会や諸侯、高位聖職者から成る国政改革委員会はガヴェストンとエドワード2世の蜜月を憂い、反乱を起こして1311年から貴族21名からなる寡頭制を敷いた。ガヴェストンとエドワード2世はスカーバラ城にて篭城するも降伏、ガヴェストンの永久国外追放が決定した。ところがガヴェストンは、1312年にロンドン護送中に暗殺される。この混乱に乗じ、スコットランドでロバート・ブルースが故国の独立を求めて蜂起。これに対してイングランドは急遽軍を送ったが、1314年バノックバーンの戦いで大敗を喫してしまった。
エドワード2世の権威は失墜したが、 21人の貴族も派閥争いに明け暮れたため、その隙に政権を手中に取り戻す。新たな寵臣としてヒュー・ル・デスペンサーをウィンチェスター伯に任じ、 1322年には貴族連合軍に勝利を収めた。ガヴェストンに成り代わったデスペンサーの実質上の支配は5年間続き、フランス王フィリップ4世の娘にしてイングランド王妃イザベラとその息子エドワード3世を旗頭にした反対勢力は、1326年ついに国王に反旗を翻した。イザベラ軍の主力は彼女の愛人マーチ伯ロジャー・ド・モーティマーの軍勢であり、同年9月、あっというまにロンドンを掌握した。デスペンサーは息子共々四つ裂きの刑に処せられ、エドワード2世は無様にも逃走したが11月20日降伏する。翌1327年、議会はエドワード2世の廃位を決議し、国王は皇太子エドワードへの譲位書に署名せざるを得なかった。
“フランスの雌狼”イザベラは、今やエドワード3世の母后として、また幼い国王の摂政として、愛人と共に権力の頂点にあった。彼女は、長年嫌悪し続けていた元夫の処刑を即決。エドワード元国王が監禁されているバークレー城に監視人として2人の暗殺者を送り込み、残忍な最期をもたらすよう画策した。失意のどん底にあったエドワードは、食事すら満足に与えられず、汚物にまみれた土牢に閉じ込められる。その処刑は、遺体に外傷を残さぬよう肛門に焼け火箸を差し込むという、壮絶なものであったという。
ところが、イザベラとモーティマーの摂政政治も長続きはせず、1330年には成長したエドワード3世によって追放されている。モーティマーは四つ裂きの刑に処せられ憤死、イザベラの方は亡くなるまで修道院に軟禁された。

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クリストファー・マーロウ Christopher Marlowe

洗礼日1564年2月26日
1593年5月30日没

貧しい生い立ちから才能1つでのし上がり、1587年7月に大学を卒業した後、本格的な作家活動に入った。劇作家としては、ティムールの生涯から想を得た「タンバレイン大王」、ドイツのファウスト伝説を下敷きにした戯曲としては世界初となる「フォースタス博士」、金の亡者を描く「マルタ島のユダヤ人」、サン・バルテルミーの大虐殺を題材にした「パリの虐殺」、同性愛の末に悲劇的な最期を遂げたエドワード2世の生涯を描く「エドワード2世」といった作品を書き上げた。ブランクヴァースを駆使した華麗な台詞回しは、当時大きな反響を巻き起こし、シェイクスピアに先がけてエリザベス朝時代の演劇の基礎を築いた。
作家としての成功の陰でその私生活は乱れ、入獄したり当局から要注意人物として目をつけられるなどの無頼生活を送っていた。大学休学中には、エリザベス1世女王の懐刀、ウォルシンガム卿の手先として諜報活動に従事しただの、また同卿の愛人であっただの、それらの関係からわずか29歳で居酒屋の喧嘩騒ぎに乗じて暗殺されただの、不穏な噂が後を断たぬ人物でもある。

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「エドワード U (Edward II)」(1991年製作)
(『エドワード U/そのセクシャルな欲望と策略(ビデオタイトル)』)
監督:デレク・ジャーマン
製作:スティーヴ・クラーク=ホール&アントニー・ルート
製作総指揮:サラ・ラドクリフ&サイモン・カーティス&浅井隆(UPLINK代表)
原作戯曲:クリストファー・マーロウ
脚本:デレク・ジャーマン&ステファン・マクブライド&ケン・バトラー
撮影:イアン・ウィルソン
音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー
衣装:サンディ・パウエル
編集:ジョージ・エイカーズ
美術:クリストファー・ホッブス
出演:スティーヴン・ウォディントン(エドワードU)
ケヴィン・コリンズ(監視役・暗殺者ライトボーン)
アンドリュー・ティアナン(ピアース・ガヴェストン)
ジョン・リンチ(スペンサー)
ティルダ・スウィントン(イザベラ王妃)
ダドリー・サットン(ウィンチェスター大主教)
ナイジェル・テリー(モーティマー)
ジェローム・フリン(ケント伯)
ジョディ・グラバー(エドワード王子後のエドワードV)
アニー・レノックス(歌手)他。

実に数年ぶりにデレク・ジャーマン監督の「エドワードU」を観る。

映画は、台詞、ストーリー展開に至るまでマーロウの原作戯曲を忠実になぞっているそうだが、映画ならではの表現方法として、既に廃位、監禁されているエドワードの回想という形をとる。栄光の頂点にあった国王時代、短かった最愛のガヴェストンとの蜜月、その後の哀れな転落。エドワードはガヴェストンを永遠に失った悲しみの中で、不潔極まる監禁生活と処刑されることへの恐怖に悶え、映像も過去と現在が複雑に錯綜してゆく。
しかし、エドワードの伝記部分は歴史に明確に残された通りであり、驚かされるのは、16世紀に書かれた戯曲が極めてリアルに“男色王”エドワードの悲劇を描いていることだ。マーロウは戯曲において、シェークスピアのように当時の為政者におもねるような真似は犯していない。エドワードの身に起こった史実から、自身も同性愛者であったマーロウは、同性愛に対する理不尽な弾圧行為全般への怒りを爆発させているようだ。スクリプトと撮影裏話を完全収録した撮影日記「エドワードUQueer」によると、ジャーマン監督も、マーロウの原作戯曲における激しく辛らつな台詞の奔流に驚いたらしい。

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同性愛への社会の非寛容は、21世紀の今日もなお解決されていない問題である。原作に顕著な、マーロウの社会への怒りと愛を全うできぬ自らの哀しみは、現代にも充分通用する普遍性を持ったテーマだ。ジャーマンがこの題材に惹かれたのもそれゆえだろうと思われる。
前述した「エドワードUQueer」にも繰り返し書かれているが、監督はこの頃既にエイズの合併症により、体調は最悪の状態にあった。そのせいか、作品全体に“死”の様々なイメージが影法師のように踊っている気がする。むき出しの石壁と土間のような地面、ベッド1つ、玉座1つといった、簡素というよりいっそ前衛的な必要最低限の舞台装置と美術、16世紀の風俗を正確に再現するのではなく、登場人物にクールな現代ファンション・デザイナーの手になる衣装を着せることでかもし出す、独特の美学は健在。物語の解釈も含め、映像は静謐で演劇的な美に溢れているが、シーンとシーンの絶妙なる間の取りかたなど、まるで現代舞踏のように流麗に流れるシークェンスは観客の想像力をいたく刺激する。私見だが、後年のラース・フォン・トリアー監督作「ドッグヴィル」や、バズ・ラーマン監督作「ロミオ+ジュリエット」に大きな影響を与えているだろう。尤も、これら“前衛的”と評される演出の妙は、実は厳しい予算を切り抜けるための苦肉の策であった。だが作品にとっては吉と出たと思う。
「カラヴァッジオ」よりもさらにセクシャルな挑発…もっと言えば、セックスと政治を絡みつかせてしまう、ジャーマン一流の挑発もあからさまである。映画製作当時問題となっていた、同性愛に対する規制法案への抗議のアジテーションまで登場する演出は、前衛演劇のような一風変わった映像構成だからこそ上手くはまったといえよう。この作品は、エドワード2世という歴史上の人物の伝記という体裁を取りながら、その実、営々と同性愛を排斥し続ける社会の非寛容と無理解への静かな怒りを表明するものなのである。

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しかしながら、昔感じたゲイ・バッシングへの監督の怒りそのものは、今観れば作品上あまり重要性を持たないのではないかと思えてきた。むしろ映画のテーマは、人間の持つ多面性と、権力への抗し難い渇望だろう。寵臣ガヴェストンとの愛にうつつを抜かすあまり政治を省みず、国民と臣下の信頼を失ったエドワード2世然り、その国王を廃位に追い込み、さらには幼い我が子を傀儡に仕立てて国の頂点に立とうとした王妃イザベラ然り。イザベラは史実によると、結婚当初から同性愛の夫を忌み嫌っていたらしいのだが、映画では夫に心からの愛を捧げるあまり、それが裏切られた反動が大きかったように描かれていた。イザベラに助力して共に摂政となった愛人モーティマーとて、当初はエドワード2世が国のためにならぬ愚昧の王だという憂いから、断固立ち上がった人物なのだ。
実は私自身は今回、エドワードとガヴェストンの許されぬ悲恋の痛みというものは、昔ほど鋭敏に感じなかった。ガヴェストンを演じたアンドリュー・ティアナンの、直情的かつ野卑な演技が見事であったせいもあろうが、徐々にむき出しにされていくガヴェストンの野心と、時を重ねるごとに愚かさが露呈していくエドワードの凡庸さの方が強烈だったほどだ。夫の前では純白のドレスしか纏わぬ清楚で貞淑なイザベラが、疎んじられるたびに“雌狼”の本性をあらわにし、化粧もドレスの色合いも派手になっていく様子。常にかっちりと軍服を身につけ、先王に忠誠を誓うマッチョの典型のようなモーティマーが、プライベートでは娼婦とSMごっこに興じるというシニカルさ。イザベラとモーティマーは、権力に近づくにつれ、その老獪で傲慢で卑劣な本性を隠そうとしなくなる。エドワード以上に冷酷な圧制を敷き、最後はエドワード3世によって転落の憂き目に遭う。ことほどさように、人間とは様々な側面を持つものであり、状況によっていかようにも変貌していく脆い生き物なのだ…という、人間性へのある種の達観が、作品を貫く大きな背骨であろうと思う。だからこそ、劇中のエドワードの愁嘆も、切迫感というより因果応報ではないかという、冷ややかな諦念をこそ強く感じるのだ。

ちょっと驚いたのが、廃位され幽閉されたエドワードを監視する牢番ライトボーンの役割。マーロウの原作戯曲では、失意のエドワードを陰湿に苦しめ、残虐な最期を与える人物として描かれているが、映画では違う。王の嘆きを聞いてやるうちに彼に同情し、イザベラ王妃から王の暗殺を依頼されるものの実行には至らなかったとされるのだ。つまりジャーマン監督は、エドワード2世は幽閉された土牢から脱出したという説を採用したのである。かの王の最期には諸説あり、身体に傷跡を残さぬよう肛門に焼け火箸を差し込まれて処刑されたとする説や、毒殺された、いやいや密かにイタリアの修道院に逃れ、そこで余生を送ったという説までいろいろだ。今となっては真偽を確かめる術もないが、国王に生まれついたばかりに“一生に一度の恋”すら許されなかった男エドワードには、古今東西を問わず哀れをもよおされるのではないだろうか。あるいは、国の長となる資質も資格もなく、死して尚偉大な父親の圧力に怯えるばかりの彼に、なにか普遍的な哀れを感じるであろうか。
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イザベラを演じたジャーマン監督作常連のティルダ・スウィントンは、素顔のジェンダー・フリーな佇まいからは想像もできぬほど、圧倒的な女性美を誇る。映画の1つの目玉は、デザイナーズ・ブランドのドレスを着こなした優雅なティルダが(少ない予算の殆どは彼女のドレス代に消えたことだろう!)、冷ややかな表情を殆ど変えることなくイザベラの内面の変化を体現したことだ。フランスの雌狼は、最後にはエドワードの弟ケント伯の喉笛を噛み切る残虐行為までやってのける。我が子の地位を脅かすものを生かしてはおかないという、母性の裏返しではないだろう。全ては自らの権勢欲を満たすためだ。ティルダの演技からは、イザベラの冷徹が寒々と伝わってくる。
いかにもいいとこの坊ちゃんという風情のスティーヴン・ウォディントンは、撮影当時22歳で、この作品が本格的映画デビューとなる。肩幅ががっしりしているのに表情が柔和で、視線に人を威圧するパワーが見られないところなど、本物のエドワード2世のようだ。国王であるのに反権力的、享楽的だったエドワードが、ただ1人ガヴェストンにだけは心底真摯な愛情を注いでいた哀れを見事に表現していた。
ガヴェストンに扮したティアナンも、撮影当時わずか25 歳。ガヴェストンという下品な無頼の輩を、野性味たっぷりに演じていて秀逸。かの男の本性を言い表す見事なシーンがある。ガヴェストンが、素っ裸でエドワードの玉座の上でサルのように踊っているのだ。子供であったエドワード3世と機関銃ごっこに興じる幼稚さ、あるいはウィンチェスター大主教を辱めてロンドン塔送りにする野蛮さの裏で、こちらもやはりエドワードにだけは純粋そのものの瞳を輝かせる。ティアナンの小犬のようなキュートな目は、ガヴェストンの多様性にうまくリアリティをもたらしていた。
牢番ライトボーンを演じたケヴィン・コリンズは、ジャーマン監督の「ザ・ガーデン」でデビューを飾った俳優である。「エドワードU」の後も「ヴィトゲンシュタイン」で主人公の恋人役を演じ、監督の公私に渡る良きパートナーであったそうだ。また、彼の顔はどこかで見た記憶があり、急遽調べてみた。監督の作品「カラヴァッジオ」に出ていたショーン・ビーン主演のテレビ映画「BRAVO TWO ZERO」(元SAS所属のアンディ・マクナブによる、自伝的湾岸戦争体験記)で、隊員の1人クリス役を演じていたのが彼だった!そう、部隊からはぐれてしまい、たった1人でシリア国境越えを果たしたクリスだ。こんなところでもジャーマン監督とのひょんなつながりを見出せて、なんだか幸せな気分になった。

皮肉にも、母イザベラそっくりに成人したエドワード3世は、父が土牢から脱出すると時を同じくして、黄金のロープを纏って玉座に座る。エドワードは、生きる意味と権力について自問を繰り返す。問題は、人生の中で何を信じ、どこに意義を見出すかであろう。たとえひとときの権勢に酔ったとしても、頂点に登りついた玉が坂道を転がり落ちるように、人間には未来永劫続く権力などありはしないのだ。

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