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zoom RSS アナーキーのすすめ−「M★A★S★H マッシュ」Part2

<<   作成日時 : 2017/01/18 23:00   >>

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“SSgt. Gorman: Goddamn army.
P.A. Announcer: That is all.

ゴーマン軍曹「クソッタレの軍隊め!」
PAアナウンサー「…そうそう、それそれ」”


「M★A★S★H マッシュ M*A*S*H」(1970年製作)
監督:ロバート・アルトマン Robert Altman
製作:インゴー・プレミンジャー&レオン・エリクセン
原作:リチャード・フッカー
脚本:リング・ラードナー・Jr
撮影:ハロルド・E・スタイン
特撮:L・B・アボット
音楽:ジョニー・マンデル
出演:エリオット・グールド(マッキンタイア大尉、トラッパー・ジョン) Elliott Gould
ドナルド・サザーランド(ピアース大尉、ホークアイ) Donald Sutherland
トム・スケリット(フォレスト大尉、デューク) Tom Skerritt
ロバート・デュヴァル(バーンズ少佐、フランク)
サリー・ケラーマン(オフーラハン少佐、ホットリップス)
ロジャー・ボーウェン(ヘンリー・ブレイク大佐)
ジョー・アン・フラッグ(シュネイダー中尉、ディッシュ)
ゲイリー・バーコフ(オリーリー伍長、レーダー)
ルネ・オーベルジョノワ(パトリック神父、デイゴ・レッド)
デイヴィッド・アーキン(アナウンス)
ジョン・シャック(ワルドウスキー大尉、ペインレス・ポール)
カール・ゴットリーブ(ブラック大尉、アグリー・ジョン)
バッド・コート(ブーン)
G・ウッド(ハモンド将軍)
キム・アトウッド(ホー・ジョン)
フレッド・ウィリアムソン(ジョーンズ大尉、スピアチャッカー)
マイケル・マーフィー(マーストン大尉、ミー・レイ)
タマラ・ウィルコックス・スミス(マッカーシー大尉、ノッコ)他。


この作品は、朝鮮戦争の最前線野戦病院に配属された軍医たちの日常と、彼らが巻き起こす珍騒動の数々を、細かなエピソードを重ねて描いたものです。ストーリーそのものはシンプルで、作品の目指すテーマもハッキリしています。権威主義を徹底的にコケにし、権力を守るものでしかない規則を暴力的なまでのシニカルなユーモアで破っていく。そうすることで、権威主義の愚行の最たるものである“戦争”そのものを徹底的に批判しているのですね。

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人と人が殺しあう狂気の戦場にあって、MASHで負傷兵の治療に当たっているホークアイ、トラッパー、デュークといった名医の面々は、そんなことはおかまいなしに始終酒をかっくらい、暇さえあれば頭の悪い高校生がやるようなオイタに血道をあげます。なぜか。
彼らは彼らの本領である手術室においては、毎日毎日神経を最大限に張り詰めさせて、絶望的な状態の負傷兵にメスをふるいます。彼らは、今手術台に横たわっている人間の命を救うというただ1つの目標に向かって、力を尽くしているのですね。しかし戦場では、彼らのそうした努力も蹴散らされるかのごとく、生死をさまよう人間が量産されています。人の命を救うのが本能ともいうべき医師の立場から見て、顔も知らない人間と殺しあう戦場とはまさしく究極の不毛の場でありましょう。戦場のみならず、野戦病院もまた戦争の狂気と絶望に対峙する場であるのですね。医師たちが日々臨む血まみれの生々しい手術シーンは、もうひとつの戦争の狂気を象徴するものです。つまりホークアイ達は、酒とセックス、遊びに興じることで、これら狂気から自らの精神の均衡を保とうと必死なのです。

ホークアイが劇中、軍隊や権威に対して怒りのセリフを吐くのも、また、そうした権力に挑戦するかのように挑発的で型破りないたずらを仕掛けていくのも、罪のない人間の命を無意味に奪う体制、権威に精一杯反発したいという信念のなせるわざだと思われます。ホークアイ達にとって、人の命を救うことも、権威側の人間をギャフンと言わせるアナーキーなおちょくりも、同じレベルで重要な使命なのでしょう。


●軍隊主義も権威主義もまとめてやっつけろ!

例えば婦長としてMASHに着任したホットリップス。彼女は軍隊主義に染まったキャリア志向の石頭でした。軍隊に籍を置く者は、すべからく軍則に沿った規律正しい日常を送るべしと頭から信じ込んでいる軍隊バカだったわけです。同じく堅物であった、クリスチャン野郎フランク医師と同類ですね。彼らを卑猥なジョークでからかい、挑発したMASHの面々は、仕上げに彼らの同衾の模様を基地内に生中継し、その種のジョークに耐性のない両者をまとめて痛めつけます。頭でっかちなばかりで、なにより医師としての腕と不測の事態に対処する能力に欠けたフランクは、こういった戦場では役立たずであります。おまけに彼は自らの力不足を棚に上げて、失敗を他人のせいにするという、権威主義の人にありがちな愚行を犯していました。早くからそれを見抜いていたホークアイ達は、ひとまずフランクをMASHから追い払うべく画策します。それがうまくいくや、次の標的はホットリップスに向けられるのですが、彼女は最終的にホークアイ達の住む側にやってきます。彼女はフランクと違って実に有能な看護婦でした。トラッパーは彼女に対し、「思想はどうあれ腕は確かだ」とその仕事ぶりを認める発言をしますが、それは言い換えれば、「その石頭さえ何とかすれば俺たちの側に来られるぜ」という意味の通告であるのです。その最後のチャンスは、彼女の全裸シャワーシーンを皆で鑑賞するという、実にえげつないいたずらで試されました。彼女は烈火のごとく怒り、半狂乱で泣き喚くという反応を示します。しかし彼女が頼りにする“軍隊”は、そんな彼女に冷ややかにこう告げただけでした。「ここがイヤなら辞めろ」と。要するに、どんなに権力に服従して尽くしたところで、その権力が自分を守ってくれるなんて、虫のいい幻想に過ぎないのですよ。ホットリップスは、軍隊主義や権威主義に染まることの不毛を、ここで骨身に沁みて理解したことになります。

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このシーンの撮影では、ホットリップス役のサリー・ケラーマンはずいぶん恥ずかしい思いをしたようです。いくら演技とはいえ、大勢のひやかし目線の中で全裸になるのは勇気が要りますものね。アルトマン監督は、彼女だけが裸になるのはアンフェアと考え、レーダー役のゲイリー・バーコフと共に2人して素っ裸でカメラの横に立ち、撮影に臨んだそうです。それはさぞかしMASH的なばかばかしさに満ちた場面だったでしょう。
ただたどしい日本語のお別れの曲が流れる中、拘束衣を着せられたフランクの憔悴した顔がクローズアップされます。後にホットリップスが半狂乱で喚く表情も、同じくクローズアップされるのですが、その両者の哀れな表情すら、監督にとっては笑いをこらえきれない素材なのでしょう。いい大人なのに低脳ないたずらに奔走するMASHの面々と、日々軍隊のやらかす愚行と、一体どっちが“気狂い”なんでしょうね。彼らのクローズアップには、監督のいじわるな目線が痛いほど感じられます。


●死のモラルに挑戦せよ

歯科医ペインレス・ポールは、ガタイがいいだけでなく信じられないお宝の持ち主です。それを武器に、故郷に3人の婚約者を残している身でありながら(笑)、ドン・ファンよろしく基地の女の子を食い散らかしていました。おそらくバチがあたったんでしょう、ある日突然彼のお宝は機能しなくなってしまいます。たった一度の失敗で地の底まで落ち込んでいくペインレスのアホさ加減もさることながら、内心ザマーミロと舌を出している仲間達の気まずい対応も笑えます。男性にとって、この種の悩みってやはり深刻なのでしょうね。ペインレスは、 “ホモになるぐらいなら死んだ方がマシ”とばかりに自殺を決意するのです。ゲイの方々がご覧になったら激怒すること請け合いの、差別ギャグのひとつですね。ですがここで、不謹慎な!とか、ナンセンスな!と眉をひそめてはいけません。死にゆくペインレスのために最後の晩餐がしめやかに行われるシーンにこそ、監督のもうひとつの挑戦―旧弊なモラルへの大胆な挑戦―が込められているのです。監督の意図を読み取ってあげましょうね。
最後の晩餐シーンの構図は、いうまでもなく、ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐 The Last Supper」の構図と全く同じです。これは意図的にそうなされたもので、神聖であるべきキリストの世界を、禁忌とされる“自殺”の道具に用いるという2重のタブーに挑んでいるのですね。また、たかがエッチに失敗したからというくだらん理由でその禁忌が犯されること、またホークアイ達がペインレスのばかげた死を“勇気ある軍人の鑑だ”と歯が浮いて全部抜けてしまうようなセリフで虚飾することで、監督は“死”そのものを笑い飛ばすという最大のタブーにも臨んでいます。
普通私達には、たとえどんな背景をもっていようと、死は最大の礼節でもって荘厳に扱われねばならないという意識がありますね。それが死に対するモラルだと私たちは信じています。しかし果たしてそうだろうかと、監督はこのシーンで観客に疑問を投げかけています。死にさえすれば、その人間は崇高な存在になるのかと。つまり死をタブー化することで、その人間が死に追いやられるに至った肝心の理由を追及するのをやめてしまう危険性が、私達にありはしないかと訴えているのです。無意識のうちに死を考えないようにすることで、私達は、なぜ戦争で人が殺し合いをしなければならないのかという大命題まで忘れ去ろうとしているのではないでしょうか。それはひいては、戦争責任の所在の追及、国家権力の戦争に対する重い罪の追及の手を緩めることになってしまいます。アルトマン監督は、死を笑いの道具に供するショック療法で、私達観客の死の意識を覚醒させしめようとしているのかもしれません。
結局この大掛かりなヤラセは、ペインレスの自信を回復させるためだけにとりおこなわれた、手の込んだいたずらでした。ペインレスは、お堅い淑女であった看護婦ディッシュとの夢のような一夜を過ごし、あっさり自殺願望を撤回してしまうのです。おバカないたずらの陰に隠れて、仲間を救うためにも努力を惜しまない、MASHの面々の意外な真面目さが垣間見られる描写でした。身分の上下の関係ではなく、横の仲間つながりの方を重要視するという、当時のアメリカの若者の思想も投影されているのでしょうね。それから、このシーンでもう1つ笑えるのが、ご立派な(笑)ペインレスとディッシュの一夜の有様がどうであったか、事後の彼らの表情をアップにすることで表現していたこと。ディッシュの疲れ切った顔が、カメラに向かって満面の笑みに変わるシーンなど、これは女性ならおおいに理解できる感情ではないでしょうか(笑)。


●医療行為の下では、身分の上下、人種は関係ない!

たいした怪我でもないのに、議員の息子だというだけで、その手術に日本の病院まで駆りだされるホークアイとトラッパー。それがすでに権威主義の現われでありますね。最前線に出される名もない兵士の収容先MASHの、お世辞にもいいとは言いがたい施設とは対照的に、議員の息子は行き届いた施設で厳重に管理されていること。両者の待遇の差に象徴される権力主義。トラッパー達は早速、小倉の病院にのさばる軍隊野郎を蹴散らしていきます。標的は、軍隊という虎の威を借る狐― 受付の女の子や、部下を見下す婦長、責任者のメリル大佐。ホークアイは、手術中であるにもかかわらず“勝手に規則を犯した”からとえらそうに怒鳴り込んでくるメリル大佐に、こう啖呵を切ります。「手術室では身分の上下は関係ない。大佐だろうが邪魔する奴は叩き出す」
人の命を左右する医療行為こそ、くだらん軍則などより最優先されるべきなのです。このシーンでは、軍隊主義、権力主義がいかに理不尽に人の命や良心を踏みにじっているか、かなりストレートに批判されていますね。メリルがミー・レイ御用達の女郎屋でヤラセのオイタ写真を撮られるおまぬけさは、権威をコケにする実にわかりやすいジョークでした。アメリカで映画が公開された当時も、この一連のシークエンスは、当時の政治に不満を募らせた観客に大受けだったとか。
もうひとつ、ホークアイ達の医師としての信念を感じさせる描写があります。女郎屋兼小児科病院で、女の子達を助けつつバイトする麻酔医ミー・レイ(彼も充分にアナーキーで本当の意味で人道的)から頼まれた赤ん坊(日米合作)の急患を、なんとアメリカ軍の施設を拝借して治療するのですよ。どこの国籍の人間であろうが、軍隊に籍を置く人間であろうがなかろうが関係なく、治療を必要とする人間には等しく医療を受けさせるべき。世界中の紛争地域で活躍するボランティア『国境なき医師団』の活動理念と同じですね。ホークアイ達は、こと医師としての本分ではリベラルで真剣そのもの、尊敬に値する人物です。だからこそ観客には、彼らが体制をコケにしまくる様が爽快に見えるのであり、体制に対してアナーキーであろうとする彼らに心から共感を寄せられるのでしょう。
ここで、ホークアイ達を迎えに来る老いた運転兵が出てきます。彼はほんの一言セリフがあるだけの脇役に過ぎません。ですが、そのセリフ「くそったれの軍隊め! Goddamn, army! (字幕では単に“くさるなァ”と訳されていましたが、実際には“ガッデム、アーミー”と言っている)」は、映画のテーマそのものといってもいい重要なもの。それが証拠に、彼は映画最後にも登場し、再び同じセリフを吐いています。アルトマン監督の作品では、セリフのない脇役であっても、いつのまにかカメラの焦点が合わされている場合が多く、またほんの一瞬のそれがストーリー上の重要な伏線になっているということすらあります。どんな小さなシーンでもどこかに映画のテーマのヒントが隠されているかもしれないと、心して画面に対峙することが要求されますね。


●はちゃめちゃ“M*A*S*Hな”撮影現場

デューク役を演じたトム・スケリットによると、撮影中は、とにかく大勢の俳優達がろくにリハーサルもせず一発本番でいっきょに演技し、監督が今どこの誰に注目しているのかも全くわからない状態だったそうです。俳優達は監督の意図を推し量る間もなく、実際の現場の雰囲気に浸るしかなかったとか。できるだけリアルな映像を欲した監督は、脚本を無視して、セリフの変更やアドリブを俳優達に奨励していきました。そのせいで、脚本を書いたリング・ラードナー・Jrの非難の矢面に立たされる羽目になるのですが。カメラは画面上の人物の動きに沿って流れるようにパンし、監督が考える“おもしろい一瞬”“注目すべき人の表情”を観客に知らせるべく、何度も飛ぶように対象にズームします。
当初は、こういった斬新なリアリズムともいうべき監督のやり方に俳優達が慣れず、特に主演のドナルド・サザーランドとエリオット・グールドは、監督が本気でイカレたと信じこんだほど。通常の撮影現場に見られる秩序など皆無、混乱した戦場そのままのごったがえした撮影状況に恐れをなし、代理人を通じてアルトマン監督をクビにするよう行動を起こしたそうです。スケリットの弁によると、そういった現場の気まずい雰囲気すら、監督は作品の色合いに盛り込んでいったそうです。まさしく、生身の人間の生態そのままをフィルムに焼き付けたいと願った、アルトマンの真骨頂でしょう。
俳優が監督の演出法に慣れてくると、マリブにある20世紀フォックス所有地での撮影現場のすぐ近くのテントで共同生活を送りつつ、俳優達はオフには映画そのままの乱痴気騒ぎに明け暮れたとか。
この作品に起用された主要俳優達は、トラッパー役のエリオット・グールドを除いて、ほぼ全員が無名に近い存在でした。グールドは、当時「ボブ&キャロル&テッド&アリス」に出演して脚光を浴びていた新進俳優でしたが、総勢14名からの新人は、この作品でメジャーデビューを飾ったといっても過言ではありません。作品が公開され、全米だけで8000万ドルを超える興収をあげる大ヒットになると、彼らはたちまち映画界に出世していきました。アルトマン監督にとってもメジャー製作会社との初めての仕事だったせいで、製作費は低く抑えられていました。その苦しい台所事情もあって、観客にあまり顔を知れていなかった彼らを起用したわけですが、逆に作品のリアルさがいや増す効用があり、ここでも監督の目論みはうまく作用したのです。


●朝鮮戦争とベトナム戦争

この作品はもともと、脚本を担当したリング・ラードナー・Jrによって1968年に見出された小説「MASH」をベースにしております。原作小説は、朝鮮戦争下で活躍する軍医の物語でした。その頃、反体制的思想のせいでハリウッドから排斥されていたラードナーは、この小説の持つ反権力的なテーマに深い共感を覚えます。そこで、製作者のインゴー・プレミンジャーを巻き込んで「MASH」の映画化を20世紀フォックスに打診しました。プレミンジャーは、この企画に携わることでハリウッドでの未来を断たれたとしても、映画化を実現したいと強く願ったそうです。当時のフォックス重役であったリチャード・ザナックは、原作のおもしろさに惹かれて企画にGOサインを出し、ラードナーにすぐさま脚色にあたらせました。ところが肝心の監督探しの段になって、その挑戦的な内容からか、なんと15人もの候補者に断られる羽目になってしまいます。最終的に、従来のハリウッド監督の枠にはまらないアルトマンに、白羽の矢が立てられたというわけですね。彼のテレビでの業績―「コンバット」など―における、斬新で大胆な演出法が重視されたのでしょう。アルトマン監督にとっても、群像劇「MASH」は、彼独特の持ち味を存分に発揮できる良いチャンスになったのです。

“観客が、当時熾烈を極めていたベトナム戦争と混同するよう仕向けたんだ。明らかにこれは朝鮮戦争だとわかるような描写は意識して除外した。”―アルトマン監督インタビューより

確かに、ホークアイ達が出向く地元の街の描写など、ベトナムそのもの。基地内で雑用の仕事をしている地元少年ホー・ジョンも、韓国人には見えないですよね。終始画面に流れるラジオ東京のたどたどしい日本語放送がなければ(日本は韓国の隣国なので、朝鮮戦争当時、駐屯する米兵に向けて東京から娯楽ラジオ放送が流されていた)、観客は映画の背景がベトナムだと錯覚するでしょう。これは朝鮮戦争にかこつけて、実は当時泥沼化していたベトナム戦争を批判したいという監督の意図があったのです。朝鮮半島を南北に分断する朝鮮戦争も、ベトナムの地を借りた米ソ戦争であるベトナム戦争も、アメリカの権力が他国へ向けた内政干渉という名の愚行です。そのせいで、多くの貴重な人命が踏みにじられてしまった。2つの愚行をまとめて批判することが、監督の大きな目的であったのですね。脚本のラードナーは、自身が書いたセリフをすべて台無しにされたと、公然とアルトマン監督を非難したそうですが、“反戦”を掲げる監督の真意を読み取れなかったのは実に残念です。ですが皮肉なことに、1970年度のアカデミー賞にノミネートされた5部門のうち、受賞の栄誉に浴したのは、このラードナーだけだったのです。
作品が無事完成した後も20世紀フォックス上層部は、リアルな手術シーンを全部カットしろなどと、文字通り監督の作品に対して “権力による暴力”を振るおうとします。プロデューサーのプレミンジャーとアルトマン監督は、映画さながらの権力主義との戦いを強いられ、ようやくディレクターズ・カット版での一般公開にこぎつけました。製作会社上層部の心配をよそに、蓋を開けてみれば、映画館開場2時間前から観客の行列が出来るほどの大ヒットを記録します。映画は、その年のカンヌ国際映画祭において、最高賞のパルム・ドールも受賞しました。最もその背景には、ヨーロッパ諸国のベトナム戦争に対する嫌悪感が作用したせいもあるかもしれませんが。

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試されているのは旧態然とした“モラル”ではなく、私達が本能的に持ちえている真の意味での“良心”です。映画が常に裸になることを求めるのは、余計な偏見や常識をとっぱらうことを他でもない私達に要求しているからでしょう。
この作品の反体制たる真髄は、悲惨な戦争を笑い飛ばすことにより、その戦争を犯す人間の愚かしさと真っ向から向き合った勇気にあると思います。戦争の根源はまさしく人間の闘争本能。本能に根ざしたそれは、生半可な知性では到底手なづけることの出来ない衝動です。それが証拠に、人類は長い歴史の中で英知を獲得したにも拘らず、過去何度も戦争という愚行を繰り返していますよね。人間は理性によって破壊衝動を抑えることが出来ると信じてきたわけですが、それが虚しい欺瞞であることは、残念ながら事実です。この作品は、そうした戦争の本質を見ようとしない“良識的な”人々に向けての、アルトマン監督の挑戦状ではないでしょうか。この作品をどう評価するかによって、私達の戦争理解がどこまで進んでいるのかを推し量ることができます。
つまり「MASH」とは、戦争を引き起こす体制とそれを助長する誤ったモラルへの、観客に向けられた踏み絵となっているわけですね。

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