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zoom RSS 「パトリス・ルコントのドゴラ DOGORA」―音は語る

<<   作成日時 : 2015/12/16 00:15   >>

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パリで生まれ育った映画監督パトリス・ルコント。ジャンルに囚われず、幅広いモチーフに創作意欲を燃やすこの映像作家には、日本にも根強いファンが多いと聞きます。いずれの作品にも、少年のようにセンシティヴな感性を保ち続ける監督自身のプロフィールが透けて見えるような気がしますね。今日は、彼の作品の中でも、私自身が非常に気に入っているものを選んでみました。


“私の長年の夢は、役者もせりふの言葉もない…ただ純粋に感情だけに訴えかける音楽映画を撮ること。それが「DOGORA」です”―パトリス・ルコントの手紙より

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「パトリス・ルコントのドゴラ DOGORA」(2004年製作)
監督:パトリス・ルコント
製作総指揮:フレデリック・ブリヨン&ジル・ルグラン
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
編集:ジョエル・アッシュ
音楽:エティエンヌ・ペルション『DOGORA』

モノクロの画面の中で、エティエンヌ・ペルションがオーケストラを前に指揮棒を振っている。彼の手になる楽曲“DOGORA”の始まりだ。内にマグマのような熱さを秘めたその旋律は、子供達の合唱で幕を開ける。

カンボジアでは、母なる河、メコン川が人々に大いなる恵みを与えている。人々の生活は全てメコン川を中心に回り続けているのだ。彼らは老いも若きも皆、太陽が川面に顔を出すと寝床から身を起こす。太陽はあっという間にギラギラと照りつけ、埃っぽい往来を自転車やスクーターに乗り込んだ人々が縦横無尽に走り抜ける。目に焼きつくほどの陽の光が、原色で彩られた建物を輝かせ、街は喧騒に埋め尽くされていく。

子供達が歓声を上げながら往来を走る傍らで、仕事に疲れた大人達はどこか気だるげだ。子供達の目には未来に繋がる力と生命力が宿り、樹液を採取するためのゴムの木の森で、ジーンズ工場で、ガソリンスタンドで、あるいは金色の稲穂が頭を垂れる田園で、彼らは大人達に混じって立ち働くのだ。メコン川の川べりで、屋台からおいしそうな料理の匂いが立ち上る。昼食にかじりつきながら川面を見つめる親子は、自転車に乗っていずこへと去っていった。仕事にあぶれた大人達が、生気のない顔色でゴミ捨て場のゴミを漁るときでさえ、傍でうずくまる子供達の目はキラキラと瞬いている。悪臭とハエの充満するゴミ捨て場で一日を終えた親子が、ゆらゆらとかげろうの漂う中をゆっくり帰路につくとき、メコン川は紫色の夕陽に染まる。水田で農機具を押す農夫は、帰宅する前の一服をつけるために立ち止まる。彼の向こうでは、今しも夕陽が川面に沈もうとしていた。

うだるような暑さが治まり夜の帳が下りると、街は昼間とは全く異なる顔を見せる。家を持たぬ男が残り少ない酒瓶を抱え、所在なげに往来に腰を下ろす。あれほど色鮮やかだった建物は暗がりに沈みこみ、わずかに青白いネオンが瞬くのみだ。しかし子供達は深い眠りの母に抱かれ、あどけない夢の世界に遊んでいる。一部屋に折り重なるように眠る子供達、粗末な小屋で眠る子供達、夜は皆に平等に訪れる。
オレンジ色の朝日がメコン川に再び光を与える頃、厨房の活気は最高潮を迎える。朝食を人々に供するためだ。往来で、あるいは店の中で、長いテーブルいっぱいに並べられた料理が次々と人々の胃袋に消えていく。たとえ貧しくとも、人々は毎日食べ、眠り、働く。その営みは昔も今も変わることはない。子供達はそのサイクルの中で、美しい瞳に未来への希望を湛えながら今日も生きていく。

画面は再び原色の氾濫を失い、モノクロに切り替わる。エティエンヌ・ペルションの指揮の前では、爆発し、うねるような旋律が静かに終り、再び子供達の美しいコーラスが全てを満たしていく。一心に歌う子供達のまなざしとカンボジアでたくましく生きる子供達のまなざしは、今この瞬間同じ高揚を共有する。 “DOGORA”とは、雑草のように力強い人間の生命力を称え、未来を築く子供達への賛歌に溢れた音楽だったのである。

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「仕立て屋の恋」や「髪結いの亭主」などの官能的なドラマで知られるパトリス・ルコント監督は、フランスの音楽家エティエンヌ・ペルション作曲の“DOGORA” と、初めて訪れたカンボジアの光景に圧倒されました。その2つに共通するのは、厳しい現状を跳ね除けるほどの力強い生命力と、未来を向いて生きる子供達への希望。ルコント監督は、これらから激しい創作意欲を掻き立てられ、セリフも俳優もストーリーすらもない映像詩を作ることを思い立ちます。

“ずっとこういう映画を撮りたかったんだ。10年前にはその勇気がなかったが、今なら可能だった。私の心の鼓動にもっとも近い、そしてもっともシンプルな作品を撮ることができて、とても満足している”―パトリス・ルコント監督インタビューより

“DOGORA” という音楽のもつパワーから喚起されるイメージを、ルコント監督が心に浮かぶままに並べていった本作。もちろん、監督が訪れたカンボジアの地で受けた衝撃が、作品の大きな推進力になっていることは言うまでもありません。この作品はフィクションでもドキュメンタリーでもなく、ただ音楽の要求する映像を、監督の目線を通したカンボジアの日常風景の中から抽出したものなのです。監督は無意識のうちに音世界の命ずるところに従い、カンボジアの躍動するエネルギーを再現してみせました。

視覚を支配するために、ある意味観る者の想像の余地を奪ってしまう映像と、受け取り手に無限のイマジネーションを与えることが出来る音楽。この相反する特質を持つ表現手段を融合させることで、完成した映像作品は、監督が意図する以上の感慨を観客にもたらすことに成功しています。

つまり観客は、必ずしも監督の望む通りの意思を映像から汲み取る必要はないわけです。監督が音楽に合わせて映像を取捨選択した過程で体験したであろうことと同様、音と映像からのイメージを自由にふくらませていけばよいのです。雄大なメコン川が夕陽に染まる様や、素朴な農機具で稲作に従事する農夫の姿、粗末な衣服で元気いっぱい走り回る子供達の姿などに、失われたかつての日本の原風景を見出すもよし。ハエが飛び交い、異臭を放つゴミ捨て場で、いたいけな子供までがゴミ拾いに没頭する有様に、いたたまれぬ思いに苛まれるもまた自由。また、ルコント監督や作曲家ペルションが、どうして“カンボジア” の貧しさから創作意欲を感じるのか、深読みしてみるのもひとつの鑑賞方法かもしれません。フランス人であるが故の、東南アジアの国々にかかる特殊な因縁が、彼らの深層心理に作用した面も否めないでしょうし。

ですが彼らは、音と映像を通じて最終的にひとつのシンプルな結論にたどりつきました。いわく、どんな劣悪な生活環境であろうとも、子供達の瞳から未来への希望と生きる喜びを奪うことはできないし、彼らの放つ生命のパワーはあらゆる人間をどうしようもなく惹きつけるものだということですね。そして私達もまた同様に、そういった、身近にあるはずの最も基本的で普遍的な真実に気づくわけです。カメラが最後に追うのは、黄色い帽子に身を隠してしまう少女の笑顔であり、料理の山を前に目を輝かせる子供達の顔であり、朝陽の中であるいは夕陽に照らされて、こちらをじっと見据える子供達の顔であります。命の瞬きは、カンボジアの喧騒と混沌の中から人間の美しさを導き出し、一切の作為を超えたところでその崇高さを雄弁に物語っているのですね。

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パトリス・ルコント Patrice Leconte

1947年11月12日生まれ
フランス、パリ出身

IDHEC(フランスの高等映画学院)で映画製作、演出について学んだが、同学院卒業後は漫画家兼フリーのイラストレーターとして漫画雑誌社で働く。短編作品やコマーシャル・フィルムなどの演出を手がけ、1975年に自作の漫画を初の長編映画として製作して、デビューを果たした。以来、コメディ・ドラマや官能的なラブ・ストーリー、ハードなアクションまで、幅広いジャンルの作品を手がけている。

●フィルモグラフィー

2013年「暮れ逢い A Promise」
2012年「スーサイド・ショップ Le Magasin des suicides」
2006年「ぼくの大切なともだち Mon meilleur ami」
2004年「親密すぎるうちあけ話 Confidences trop intimes」監督
2004年「パトリス・ルコントのドゴラ Dogora - Ouvrons les yeux」監督
2002年「歓楽通り Rue des plaisirs」監督&脚本
2002年「列車に乗った男 L'Homme du train」監督
2000年「フェリックスとローラ Felix et Lola」監督&脚本
1999年「橋の上の娘 La Fille sur le pont」監督
1999年「サン・ピエールの生命(いのち) La Veuve de Saint-Pierre」監督
1998年「ハーフ・ア・チャンス Une chance sur deux」監督&脚本
1996年「パトリス・ルコントの大喝采 Les Grands ducs」監督&脚本
1995年「リディキュール Ridicule」監督
1995年「ラ・シオタ駅 1996年 La Ciotat 1996/Patrice Leconte」(短編オムニバス「キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒 Lumiere et compagnie」に収録)
1994年「イヴォンヌの香り Le Parfum d'Yvonne」監督&脚本
1992年「タンゴ Tango」監督&脚本
1992年「パトリス・ルコントのボレロ」(未)監督
1990年「髪結いの亭主 Le Mari de la coiffeuse」監督&脚本
1989年「仕立て屋の恋 Monsieur Hire」監督&脚本
1987年「タンデム Tandem」監督&脚本
1984年「スペシャリスト」(未)監督
1983年「愛しのエレーヌ/ルルーとペリシエの事件簿」(未)監督&脚本
1981年「夢見るシングルズ」(未)監督
1980年「恋の邪魔者」(未)監督&脚本
1979年「レ・ブロンゼ/スキーに行く」監督
1978年「レ・ブロンゼ/日焼けした連中」(未)監督
1973年「ハッピーファミリー」(未)監督

実は、このような音楽と映像のみのアート作品を厳密に“映画”とみなしてよいものか、今だ判断がつきかねているところです。本来映画とは、練り上げられたストーリーを訓練された俳優が演じることで、観客に感慨をもたらすものだと思うからです。しかしながら、デレク・ジャーマンの「ウォー・レクイエム」のように、音と映像の一体化が観客に“思考”を強いる力を持つ場合、これをひとつの完成された作品として捉えようと考えました。単なるバックグラウンド・ビデオと映画作品の間の境界線を、観客の感動の度合いで測ろうというわけです。
商業的な意欲とは別次元にある、こんな個人的な作品から、私達がなんらかの普遍的な感情を汲み取ることが出来るならば、そこに優れた映画を観る喜びと同等の価値があると言っていいでしょう。


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