House of M

アクセスカウンタ

zoom RSS 消えた妖精の謎ー「ピクニックatハンギング・ロック(ディレクターズ・カット版)」Part2

<<   作成日時 : 2015/02/16 11:05   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 22 / トラックバック 0 / コメント 0

「このストーリーがフィクションなのかあるいはそうでないのか、お教えすることは出来ません。ですが、非常に奇妙な説明しがたい出来事が、ハンギング・ロック付近で起こったのです…」― 「ピクニックatハンギング・ロック Picnic at Hanging Rock」原作者ジョアン・リンゼイのインタビューより抜粋

「この作品は、事実の映像化というより、“事実にインスパイアされている”と言ったほうがいいかもしれません。当時の新聞にも警察にすら、この事件の詳細を伝える記録は残されていませんが、リンゼイ女史がこの原作を書くに至った出来事が確かに起こりました。しかし、それは決して公表されることはなかったのです。原作中に登場する人物のモデルとなった人たちが、これ以上苦しめられることのないように」―ピーター・ウィアー監督のインタビューより抜粋

「刑事ジョン・ブック」「いまを生きる」「トゥルーマン・ショー」「マスター・アンド・コマンダー」など、端正な人間ドラマ作りに定評のあるピーター・ウィアー監督は、オーストラリア時代にはこの作品や「ザ・ラスト・ウェーブ」のように、いわく言いがたいシュールな作品を製作しています。オーストラリアという、人間の手の及ばぬ自然界と文明界が奇妙に交錯する空間でのみ成り立つ作品群ですね。
今作全体から受ける印象は、英国などの寄宿学校ものを連想させますが、映像の背後に流れるパンフルートの音色やハンギング・ロックの威容、随所に顔を出すオーストラリア大陸特有の生き物などによって、ヨーロッパの光景とは異なる不可思議な荒々しさを醸しだすことに成功しています。


時は1900年2月14日、南オーストラリアにあった寄宿制の名門校アップルヤード女学院の女子生徒達が、ハンギング・ロックにピクニックに出かけるところからお話は始まります。厳格で窮屈な学園生活からいっときでも開放される喜びで、少女達は子供らしく大はしゃぎします。

100万年もの間その姿を変えなかった岩山ハンギング・ロックは、地磁気が乱れ、時計をも止めてしまうという禍々しさが漂います。その中で、美しいレースやリボンで飾られた白いドレスをたなびかせ、少女達は詩を吟じたり風景を眺めたりして思い思いの午後を過ごすのです。時のたつのも忘れるほど、ゆったりと穏やかなひとときが流れていきます。ごつごつした荒々しい岩山と美しい天使達。このアンバランスな取り合わせが、後に起こる不吉な事件を予感させ、観る者の背筋に悪寒を走らせるのですね。やがてミランダをはじめ、数人の少女達が岩山の高みを目指して歩き始めました。他の生徒達と随行していた女教師の1人は眠りに落ちていきます。その間に、唯一覚醒していた(目を覚ましていた)1人の老教師マクロウ女史と、ミランダ達3人の少女は忽然と姿を消してしまうのです。これは、実際に起こった神隠し事件を元に創作された小説を、忠実に映像化した作品だったのですね。

画像

絹のような金髪、陶器のような白い肌にバラ色の唇―神秘的な美しさを誇るミランダは、岩山の裂け目で突如天の啓示を受け、彼女達を縛る衣服を脱ぎ捨てます。当時の女性の肉体をいましめていた、手袋や長い靴下、ぺティコートやコルセットは、社会の中で自由に生きられない彼女達の哀しみの象徴です。ミランダが靴下や手袋を取ってしまったのは、そうすることによって魂をも解放したかったのかもしれませんね。しかし映像は、その思惑の反面、言葉に尽くせないほどのエロティシズムを観客に伝えます。
そして3人の少女達は、わき目も振らず一心に岩山の奥へと…裂け目の中へと登っていくのです。未知の世界への甘美な誘惑と、無を意味する闇への恐怖がないまぜになった、ゾクゾクするような異様な緊張感が高まっていきます。このシーンでは、全ての雑音がシャットアウトされ、1人プレッシャーに耐えかね脱落したイーディスの絶叫のみがこだまするのです。神に触れることを畏れたイーディスは俗世へと逃げ帰り、天使たちは現世から消えていきました。
この失踪事件で不可解を極めるのは、常に非現実的な詩の世界を漂うような3人の少女達だけでなく、暇さえあれば数学の学術書を紐解くような論理的なマクロウ女史までもが、行動を狂わされた点でしょうね。彼女は、アップルヤード校長でさえも頼りにするほどの男性的な知性の持ち主でした。それが下着姿で岩山を彷徨するなど、真相はどうあれこの事件の不条理さを代弁する存在です。その日のうちに警察の捜索が始まりますが、イーディスやマイケル青年の目撃証言も、まるでハンギング・ロックの魔力に惑わされたかのように的を得ません。失踪事件の謎は深まるばかりです。

当事者だけでなく、捜査する人達、また学園に残された人達にも、時間の経過と共に焦燥の色が濃くなっていきます。映画は、事件そのものよりもむしろ周囲の人々の苦悩を丹念に浮き彫りにしていくのですね。中でも悲劇的なのが、孤児という肩身の狭い身の上で在学するセーラでしょう。おそらく彼女の後見人は、彼女を学園に放り込んだ後、もう用無しとばかりに姿を消したに違いありません。学費も滞り、身よりもない彼女を校長は目の敵にします。そして事件が迷宮入りすると共に生徒達が学園を去っていくと、その不満と絶望をセーラにぶつけるようになったのですね。経営は見る間に立ち行かなくなり、自らが受け継いだ学園の栄光が目の前で崩れ去っていくのを、校長は為す術もなく見つめるしかありませんでした。失踪事件は不可抗力ですので、彼女はその怒りの矛先をセーラに向けてしまったのです。セーラの気持ちを知りながら、施設に戻るよう強要し追い詰めていく。周囲の先生や生徒もそれに同調して、セーラを、事件によってもたらされた恐怖心や不安感のはけ口にしてしまう…。

この、弱者いじめという名の一種の集団ヒステリー描写は、絵画のように美しい背景と相反して、かなりグロテスクに感じられますね。校長が事件によって社会的制裁を受け次第にすさんでいく様と同調して、むき出しにされた神経をひりひりかすめるようなそら恐ろしさが、画面に充満していくことになります。ついに全ての生徒がいなくなってしまった学園内で、引き取り手もなく1人取り残されたセーラ。幽霊でも出そうな重苦しい暗闇の中、校長はセーラに最後通告を渡します。それは実は、彼女を施設に戻すことではなく、ここを出て行かなければ殺すぞという意味でした。
なにもかもを失って自棄になった校長は、狂気の情念の命ずるまま、自らセーラを手にかけました。そのシーンは実際には描かれませんが、温室の植え込みの中にゴミのように打ち捨てられていた哀れな少女の遺体が、全てを物語っています。セーラはミランダを愛し、彼女がいなくなってしまっても空気の中にその面影を追って、学園にとどまろうとしました。学園を去ることは、彼女にとって生きることをやめることです。おそらく彼女は、校長による最後の理不尽な暴力も、甘んじて受け入れたのではないでしょうか。死ねば、魂だけはミランダの元に行けるかもしれませんから。
しかしまあ今にして思えば、セーラを巡る一連の描写については、あまりにシビアなものだと感じられますね。一歩間違えれば、虐待だと取られかねないかもしれません。ウィアー監督の一見非常に端正に見える諸作品は、実はかなり冷徹な人間心理の観察記録でもあるのです。美しい映像についほだされてしまうのですが、人間心理の闇は嘘偽りなく描き出されていますね。そういった監督のスタンスは、ハリウッドに進出以降の作品群でも変わりがないと思います。

ほどなく、ミランダたちの後を追うように、校長自身もハンギング・ロックのふもとで死んでいきます。真相を自分の目で確かめるために岩山に登ろうとしたのか、あるいは死せるセーラの魂が呼び寄せたのか、それともミランダ達を連れ去った異界が招き寄せたのか…。いずれにしても、校長はハンギング・ロックの中に入ることすら出来ず、そのふもとでみじめに生涯を閉じる結果になりました。ミランダがいる至高の世界が、足を踏み入れるのを許さなかったのでしょうか。彼女もまた、ミランダが引き起こした失踪事件の哀れな犠牲者であるのです。

この事件の波紋は、校長だけではなく、生徒達のピクニックに遭遇したマイケル青年やアルバート青年にも静かに広がっていきます。特にマイケルは、失踪した少女達の最後の目撃者となっただけに、事件に過剰なまでの罪悪感を抱いてしまいます。あるいは彼もまた、ミランダの美にひそやかに心奪われていた者の1人だったのかもしれません。彼は、突き動かされるようにハンギング・ロック周辺をたった1人で捜索し続け、姿を消した少女達の残像に導かれるまま、ついに彼女達が消えたとおぼしき場所―現実世界と異世界のはざま―を覗くのです。意識を失う直前で硬直する彼が手に握り締めていたものが、友人アルバートに託された次の瞬間。これが消えた少女のドレスの一片であることが明らかになる際、画面の緊張感は最高点に達します。マイケルは執念で異世界への扉をこじ開けたのか。少なくともこれがきっかけで、アーマは俗世に生還することができたのです。

一方アルバートは、本編の脇で語られるもう一つの悲劇の主人公です。彼は、幼い頃に孤児院で別れたきりの妹“セーラ”が、学園にいることも知らずにマイケルの元で働いています。その気になればすぐ手の届く距離に、離れ離れになった兄妹がお互いの存在を知らずにいる哀れさ。2人はセーラの死の直後、その魂が兄の枕元に立って初めて再会を果たすのです。

画面の随所に、何気無く挿入される白鳥のイメージ。これは、マドモアゼル・ポワチエが、ボッティチェリの天使と称えたミランダの象徴であり、行方不明者を探す全ての人々の目の前に幻のように現れては消えます。ミランダという存在は、周囲の人々にとって一体なんだったのでしょうか。
彼女は、ある意味この失踪事件を牽引した張本人とも捉えられます。その美しさで見る者すべてを虜にし、他の人間には窺い知れない異世界と通じ合う。彼女と共鳴しあう者のみが、その瞳に映る世界に触れることができるのです。結局現世に帰ってこなかったミランダ以外の少女達は、人であって人でないようなミランダに魅入られてしまったということでしょう。
ミランダ自身は映画冒頭でいなくなりますが、その美の残像は最後まで登場人物と観客にまとわりついて離れません。最後、彼女はまるで観客に別れを告げるかのように、笑顔でこちらに向かって手を振ります。輝くまでの生に溢れながら死に甘美な憧れを抱き、やがては人の理解の及ばぬ聖域に吸い込まれていった少女は、一瞬だけこの世に姿を現した美の化身だったのかもしれません。全ての人間が、思春期の危うい年代にのみ垣間見ることを許される、生と死のはざまに奇跡的に存在する美。それははかない幻のようで、振り返った瞬間にはもう目の前から消えてなくなってしまうものです。ミランダは美を体現するためにこの世に生を受け、その美ゆえに神が彼女の存在そのものを俗世からとりあげてしまったのかもしれません。

画像

失踪事件の真相は、結局最後まで明かされずじまいです。謎解きサスペンスものの醍醐味は、その謎がついに解き明かされる瞬間にあるものですが、この作品では、謎そのものを、神の世界に近づけることによって美しく描ききることに徹しているのです。謎は謎のまま下手な謎解きを一切排して、人知の及ばない世界の存在を暗示する。美しいドレスに身を包んだ少女達が笑いさざめく姿、愛の詩をうっとりと吟じる一服の絵画のような光景、学園内の瀟洒な調度品、厳格な校長が学園内を厳かに歩く衣ずれの音…。それらの対極にある、オーストラリア大陸の荒々しいたたずまい。そういった映像を彩る小道具は全て、謎を説明するものではなく、あくまで暗喩を提示するだけ。この作品は、映像の隅々にまで張り巡らされた暗示によって、観客の想像力を刺激し喚起させることに成功した類まれなる作品であるのです。

ピーター・ウィアー DVD-BOX 1
エスピーオー
2005-01-28

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 22
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス
驚いた
面白い
消えた妖精の謎ー「ピクニックatハンギング・ロック(ディレクターズ・カット版)」Part2 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる