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zoom RSS 「フリークス Freaks」Part2―トッド・ブラウニング Tod Browning監督

<<   作成日時 : 2015/10/01 21:24   >>

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1931年にブラウニング監督がユニヴァーサルで製作した怪奇映画「魔人ドラキュラ Dracula」(1931年)は、空前の大ヒットを飛ばし、現在も連綿と続くホラー映画の祖と位置づけられるようになりました。(当ブログ内記事『恐怖の闇に呑まれた男−トッド・ブラウニング Tod Browning』をご参照ください。)

ホラーという未開拓のジャンルに、金のなる木を見出したMGM社のアービング・G・タルバーグは、「ドラキュラ」を超える衝撃的なホラー作品の製作をブラウニング監督に依頼します。これを受けて、監督は以前から温めていた企画に着手しました。それが、トッド・ソロンズ原作小説「拍車」の映像化です。この小説に自身のサーカスでの実体験をプラスして、当時各地の見世物小屋で活躍していた本物の奇形者や不具者を起用しての、彼らを中心とした人間の愛憎劇を描こうとしたわけです。

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監督はバーナム・バーナム・リングリング・サーカスの協力を得て、主役のハンスに何度も自作で組んでいたハリー・アールズを起用、その婚約者フリーダ役に彼の妹を起用しました。ハンスを惑わせるクレオパトラ役には、MGM所属のスターであったジーン・ハーロウやマーナ・ロイなどが候補に挙がりましたが、作品の内容に恐れをなした彼女達は次々降板してしまいます。二転三転したあげく、結局ロシア出身のオルガ・バラクノヴァに落ち着き、撮影が開始されました。
監督は、作品の中心となるフリークスの存在感にリアリティを持たせ、劇中で披露される彼らの芸を見せ場にするため、全米のサーカスで活躍していた本物のスター芸人達を集めました。
作品冒頭の序文で述べられていたように、身体に不自由な部分を持って生まれついた者達の多くは、健常者の社会の中では存在すら黙殺される運命にありました。サーカスや見世物小屋の中で芸人として活躍し、観客に受け入れられた者はほんの一握りに過ぎません。19世紀後半から20世紀初頭にかけて流行した見世物小屋という特異な場は、健常者による彼らへの差別を助長するという根強い批判をはねかえし、一般に浸透していきました。見世物小屋が流行った背景には、健常者の“怖いもの見たさ”という無責任な娯楽と、フリークス達を見ることによって、“あんなふうに生まれなくて良かった”と自身の幸福を再認識するという身勝手な心理が働いていたことは確かです。しかし、大衆からいかな屈辱的な認識をされようとも、彼らフリークス達にとって、この見世物小屋は大切な労働場所でありました。そこでなら、彼らはこの社会の中で“存在して”いられるからですね。

多くの映画で、こうした見世物小屋の興行主は金銭欲に凝り固まった悪党のように描かれますが、実際は違ったようです。現にこの作品でも、フリークス芸人を多数擁するサーカス団の団長テトラリーニ夫人は、フリークス達を“私の子供達”と呼んで深い愛情を注ぐ存在でしたしね。デイヴィッド・リンチ監督が映画化した「エレファント・マン」のモデル、ジョゼフ・ケアリー・メリックも回想録の中で、自身が所属した見世物小屋の興行主に対し感謝の意を表しているぐらいですから。興行主がいたからこそ、フリークス達は働く場が与えられ、金を稼ぐことができたわけです。

人道的な立場から、あるいは倫理的な観点から、“健常者”達のうしろめたさか、こうした見世物小屋は時代と共に廃れていきますが、この「フリークス」に出演した芸人達は実際に“スター”でありました。それこそ、ハリウッド・スターも真っ青のエゴと自信に満ち、彼らからの要求が厳しくて撮影は難航を余儀なくされたほど。つまり彼らは、自らの身体的不具をうまく利用して芸を行うことに信念を持ち、誇りを持っていたのです。彼らの活躍できる場を“差別を助長するから”という理由で撤廃してしまう風潮は、ひょっとしたら、逆に彼らの自尊心を傷つける恐れもあるのではないでしょうか。彼らの芸は、他の芸人のそれと全く同じもの。わかりやすくいえば、若い娘が金を稼ぐのに、身体のラインを強調するようなドレスをまとうのと似たようなもの。
問題なのは、それを見る私たちの側にあるのですよ。劇中、不自由な身体で芸をする彼らの様子を見て嫌悪感を抱いたり、あるいは“かわいそう”と感じたならば、それがどうしてなのかをよく自問する必要があると思います。その感情こそが、未知なるもの、自らと異なるものへの差別・排除の意識の源泉であるからです。ブラウニング監督自身は、多くの観客の反応を考慮して、そうしたシーンでは明るくユーモラスな味付けを施していますが、これらは私達観客の意識のあり方を試されている場でもあるでしょうね。

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彼らフリークス芸人達の知名度が上がり、社会に於いての地位が確立されてくると、“フリークス”という呼び名そのものに宿る侮蔑的な差別感情を撤廃するため、彼らの人権を主張する大規模な集会ももたれたそうです。しかし現在の社会は、彼らの声を間違って捉えてはいないでしょうか。私には今の社会が、彼らの存在に蓋をし、まるで最初からなかったものであるかのようにしようとしているように思われてなりません。
見世物小屋がなくなっていったのも、本当のところは、それを見せられることが社会のマジョリティたる健常者の奥底に眠る差別の本能を際限なく刺激し、多くの人はそれを止められないことがわかっていたから。本来なら、健常者、不具者の別関係なく、社会の中でごちゃまぜになって生活する状態が当たり前、となるのが理想ですよね。しかし多くの健常者にとって、自身とは異なる不具の人々と対面することは、自身の中に眠る危険な差別意識と日々対峙することを意味します。本能に根ざす感情と戦うのは、大変な努力と自制を要し、多くの人にとって克服しがたい難問なわけです。そんな厳しい試練を受けるぐらいなら、手っ取り早くくさいものに蓋をしてしまえ、と流れていくのがマジョリティ社会なのですね。よく考えれば、「フリークス」で描かれたサーカスというのは、健常者と不具者がある程度対等な立場で共存しえた(目に見えない差別の壁はあったにせよ)、特異な場であったのかもしれません。だからこそブラウニング監督は、サーカスで知り合ったフリークス芸人達に限りない親しみを養ったのです。

この作品の描写は明確で、単純そのものです。サーカスを舞台にすることで、健常者とフリークス達の社会に於ける立場の差をわかりやすく比較、提示する。また、 “マジョリティ”の象徴である美女クレオパトラと美男ヘラクレスの非道をことさら強調することで、観客のフリークスへの強い共感を促し、ラストの彼らのクレオパトラへの復讐劇に無理なくストーリーをつなげていく。そうした監督の意図はきちんとうかがえるのですが、ここでひとつ誤算が生じました。小人ハンスの受ける辱め、彼の悲しみや怒りは観る者の胸を打つのですが、問題は最後の復讐劇の解釈の仕方ですね。

彼らフリークスはそれまで、厳しくともめげずに、社会の中で明るく優しく自己主張してきました。心優しいピエロのフロゾを触媒として(彼は監督自身の化身であった)描かれる、彼らの人生への姿勢は、私達に感動といくばくかの反省をもたらしていたのです。それなのに最後の最後で彼らは、まるで秘密結社のような隠微な響きを持つ“掟”とやらに反したクレオパトラに、実に陰惨な制裁をくだしてしまう…。目には目を。最後に残酷な一面をあらわにした彼らフリークス達に、多くの観客は嫌悪感を覚えました。こんな描写の仕方をしてしまったら、せっかく育ちつつあった彼らへの共感が一気に冷めてしまうではないか、これではフリークス達への嫌悪感と差別を一層助長するだけではないか…。確かに、クレオパトラとヘラクレスににじり寄っていく彼らの形相は、“怪物”そのもの。夜、嵐、雷鳴、大雨、汚泥、悲鳴…典型的なホラー演出によって、彼らは単なる恐怖の産物と化してしまったように見えます。

ですが、ここでよく考えてみたいのは、健常者もフリークスも“同じ人間”であるという点です。健常者の中には、親切で優しい人間もいれば、腹黒い悪人だって大勢いるでしょう。フリークスだって同じこと。私たちは彼らへの後ろめたさからつい、彼らに対して、逆境に耐える聖人のような人々ばかりだというイメージを持ちがちですが、実際はそうではないということです。彼らだって怒ることもあれば、それを爆発させたいと思うときだってある。うれしければ笑うし、悲しければ涙を流す。人間としてあたりまえの感情を持っていて当然だという基本を、忘れてはならないのです。ブラウニング監督は、彼らの下した、差別者クレオパトラへの制裁に、“我々は皆、不完全な人間であるという点において真に平等である”という、一番大事なメッセージを込めたのではないでしょうか。どんな人間であれ、いい面悪い面を併せ持ち、いつまでも決して完璧な存在にはなりえない。作品の最後につけ加えられたハンスのその後の有様は、己がしでかした罪の意識に苛まれた哀れな人間そのものでした。彼の苦渋の表情は、クレオパトラへの復讐を果たしたからといってその人生が幸せになることはないと暗示するかのようで、一層悲しいものでした。

ここでもうひとつやるせない気持ちになるのは、しょせん彼らフリークスの悲しみは彼らにしか理解し得ないという諦めが感じられること。例えば、彼らを他の国の人間などにあてはめてみてください。違う環境の元に育った人間同士が、本当の意味で理解しあうことはないのではないか。世界中の国々の間の距離が狭まり、異なる人種や種族が接する機会が増えた現在、私たちがこんな虚無感を持て余す回数も増したはずです。この作品は、その点に於いても普遍的な問題を提示しているように思えてなりません。

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しかし、この作品の最も不幸であった点は、私達全ての人間が抱える差別のシステムを、あまりにも明らかにしてしまったことでしょう。差別者クレオパトラとヘラクレス、彼らに制裁をもって対峙するフリークスの双方に、私達は自身の隠された顔を見出すのです。特に、画面に登場するフリークス達が嘘偽りのない“本物”であったために、それは一層の生々しさでもって観客に迫ります。この作品が、公開当時観客に嫌悪された理由はそこにあったでしょう。たとえそれが真実の姿であっても、己の醜い姿を鏡越しに絶えず見せ付けられるような苦痛に、多くの人間は耐えられないからです。

全ての人間に隠された差別意識を、こうも無垢にあっけらかんと表現できたという点で、この作品は唯一無二の存在になったと思われます。様々な問題が噴出する今だからこそ、正面から向き合うべき映画なのではないでしょうか。

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