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zoom RSS 恐怖の闇に呑まれた男−トッド・ブラウニング

<<   作成日時 : 2009/08/22 05:23   >>

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トッド・ブラウニング 

1880年7月12日生まれ
1962年10月6日没(カリフォルニア州マリブ)
アメリカ、ケンタッキー州ルイヴィル出身

本名はチャールズ・アルバート・ブラウニング。生家は貧しく、子供の頃は満足に教育も受けられなかった。もともと運動神経抜群であったことを利用し、16歳のときに家を出てサーカス団に入った。サーカス団では、アクロバットやピエロの芸で人気者になり、やがてボードビルに出演するようにもなった。 1915年にはバイオグラフ社と俳優として契約を結び、『The Deceiver』などの映画に出演を果たした。また同年、短編作品『The Lucky Transfer』を監督し、映画監督としてもデビューを飾る。時代は映画界の黎明期、ハリウッドでは名監督による超大作が次々と製作されていた。 1916年に製作されたD・W・グリフィス監督の大作「イントレランス」もそのひとつ。ブラウニングはこの作品で助監督を務め、膨大な数のエキストラの指揮に手腕を発揮した。翌17年には、共同監督ながら早くも初の長編作品『Jim Bludso』を製作し、以後怒涛の勢いで娯楽作品を多数手がけるようになる。「飾りなき女」(1919年)、「泥中の薔薇」(1919年)、「スタンブールの処女」(1920年)、「野辺のロマンス」(1920年)など、タイトルから容易に察せられるように、当初はメロドラマ中心のフィルモグラフィーであった。
転機は1925年に演出した「三人」。内容は犯罪コメディであるが、暗い画面や恐怖を駆り立てるサスペンスフルな映像など、後年色濃くなる怪奇映画趣味の萌芽が感じられる。それは、この作品に起用した俳優ロン・チェイニーの持つ、独特の屈折した雰囲気に負う所も大きかった。以前から交友のあったチェイニーとは、その後「黒い鳥」(1926年)や「知られぬ人」(1927年)などで何度もタッグを組み、“怪奇映画”というマイナーなジャンル映画の観客層を確実に広げていく。それは同時にチェイニー自身の、性格俳優としてのキャリアにもつながっていった。
ユニヴァーサル社の後押しで製作した「魔人ドラキュラ」(1931年)では、前年に喉頭がんで急逝したチェイニーに代わり、1927年からブロードウェイでドラキュラ役を好演していたベラ・ルゴシに急遽主役を託す。ルゴシの、いかにもヨーロッパ人然とした威厳ある佇まい、ハンガリー訛りの英語で話されるセリフなどがドラキュラ役に説得力をもたらし、映画は空前の大ヒットを記録。ブラウニングは、ゴシック様式を映画の世界に根付かせ、これまでの作品の集大成的な怪奇ムードをスクリーンに展開、“吸血鬼映画”のスタイルを作り上げた。
MGM社社長アービング・G・タルバーグは、新たに人気ジャンルとなった怪奇映画に興行の可能性を見出し、ブラウニングに「魔人ドラキュラ」を超える恐怖映画の製作を依頼する。そこでブラウニングは、幼い頃過ごしたサーカス団で同じ釜の飯を食べ、家族同然に暮らした見世物の芸人達―当時“フリークス”という蔑称で呼ばれていた身体に障害を持つ人々―を大挙出演させた作品を製作する決意を固める。製作会社からの注文は“怪奇映画”であったものの、彼は見世物小屋の芸人達に深い愛情を寄せていたために、作品を単なる恐怖ものにする気はなかった。役者には、本物の小人症やシャム双生児などの、当時サーカス一座で実際に活躍していた芸人達を起用して、彼らの風貌を多分に利用した猟奇ムードあふれる映像を作ったが、作品の目線は常にフリークスたちに合わせられていた。社会からオミットされる立場にあった彼らの視点から見た、“健常な”人間の醜怪さを明らかにするというテーマ性は、しかし観客には理解されず、センセーショナルな映像ばかりが取りざたされる結果となる。「怪物團」と題された作品がアメリカで公開されると、映画館では失神者が続出し、作品を観た妊婦が流産する騒ぎまで起こり、早々と上映禁止の措置を受けてしまう。翌年日本でも公開されたが、 2週間で上映禁止となっている。当然興行的にも大失敗で、ブラウニングはこれ1作で石持て追われるごとくに映画界から干されてしまった。
その後、彼は「魔人ドラキュラ」で築いた名声の余力で、ルゴシ主演の「古城の妖気」(1935年)や、ライオネル・バリモアが悪魔を演じる「悪魔の人形」(1936年)を製作するが、1939年の『Miracle for Sale』を最後に映画界から去っていった。
1962 年のベルリン映画祭で、「フリークス」と改題されたブラウニング渾身の作品が再上映されると、その先鋭的なテーマ、時代を先取りしたかのようなアナーキーなビジュアルなどが高く評価され、この作品とブラウニング自身への再評価の気運が高まっていく。しかし本人はそれを知ることなく、同年10月6日、数年前から患っていた咽頭癌が原因で世を去った。友人宅の洗面所で死去していたという。

●フィルモグラフィー
1939年『Miracle for Sale』
1936年「悪魔の人形」
1935年「古城の妖鬼」兼原作
1933年「街の伊達男」
1932年「怪物團(フリークス)」兼製作
1931年「鉄青年」
1931年「魔人ドラキュラ」
1930年「法の外」兼脚本
1929年「獣人タイガ」兼原案
1928年「ザンジバーの西」
1927年「知られぬ人」兼原作
1927年「見世物」
1926年「黒い鳥」
1926年「マンダレイへの道」兼原案
1925年「三人」
1925年「からくり四人組」
1923年「妖雲渦巻く」兼脚本
1923年「白虎」
1923年「我死すとも」
1922年「親切第一」
1922年「闇に潜む男」
1922年「二国旗の下」兼脚本
1921年「法の外」兼製作と原案
1921年「女は知らず」兼脚本
1920年「スタンブールの処女」
1920年「野辺のロマンス」
1919年「飾りなき女」
1919年「泥中の薔薇」
1919年「愛と光明」
1919年「波間の花嫁」
1918年「花いばら」
1917年『Jim Bludso』
1916年「イントレランス」 助監督
1915年『The Lucky Transfer』短編

“恐怖”とは、人間の根源的な本能に根ざす感情です。なにかを恐れると、人は普段持っている理性を忘れてしまいますね。あるいは、恐怖は人の自衛本能をむき出しにしてしまうといってもいいでしょう。
映画作家としてのキャリアの頂点を、怪奇映画、恐怖映画に捧げたブラウニング監督は、この“恐怖”を演出することにとり憑かれた男です。美しさでも笑いでも感動でもなく、暗澹たる恐怖を創造し、観客に提供することに美学を見出していたのは確かでしょうが、それ以上に、恐怖によって明らかになる、恐怖の加害者と被害者双方の心理の闇を覗き込むことに、背徳的な快感を覚えていたとも考えられないでしょうか。
恐怖が闇の中に潜んでいるように、それを光の下に晒すことは、人間の本質の奥深い部分に眠るなにかを暴く行為であります。恐怖の引き起こす狂気、理不尽な暴力、底なしの欲望…。スクリーンに投影されたそれを目にするというのは、私たち自身の内面を鏡に映すことに他なりません。人間の本能に働きかけるその誘惑は、やがてブラウニング監督というひとつの才能を映画界の闇の中に葬ってしまいました。ですが、彼の残した怪奇映画作品には、社会からはじき出されざるを得ないアウトサイダーたちの深い哀しみと怒りも感じられ、それは同時に社会的弱者層出身の監督自身の心の叫びでもあったのでしょう。

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ですがまあトッド・ブラウニングという人は、存外短かったキャリアの中で、なにも恐怖映画ばかり撮っていたわけではありません。ロマンス映画やサスペンスものなど、純然たる娯楽映画も手がけてはいるのですが、現在でもクラシックとして映画史の記憶に残っている作品はといえば、やはりロン・チェイニーと組んだ諸作品や、この「魔人ドラキュラ」のような作品なのですね。私もこの作品は好きで何度か観ていますが、映画という表現形態においては、どれだけ個性の際立った俳優をキャスティングできるかが、結局作品の行く末を決定するのだと実感しますね。
その意味では、ロン・チェイニー亡き後、ブラウニング監督が自身のルーツでもある“フリークス”たちを映画の主軸に据えようと考えたのも、わかる気がします。もちろん、目先の刺激を安易に追おうとしたわけでは決してありませんが、彼にとっての“恐怖の源泉”とは一体何だったのか、「フリークス」に至るまでの諸作品の過程で浮かび上がってくるのです。

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