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zoom RSS 不幸な愛の物語−「M.バタフライ M. Butterfly」

<<   作成日時 : 2015/11/08 16:59   >>

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クローネンバーグの新作と聞いただけで、観客はある種の期待を寄せてしまいます。かくいう私もそうです。それが、「M.バタフライ M.Butterfly」がきちんと評価してもらえない一番の原因ではないでしょうか。

この作品に対するいろいろな方のレビューを読みましたが、否定的な評価が圧倒的でした。日本で公開された当初、観た私の印象も実は「???」というもの。このような内容ならば、なにもクローネンバーグがわざわざメガホンをとらなくても、他に適任者がいただろうに…と思ったものです。
実はこの作品は、中国に文化大革命の嵐が吹き荒れていた頃に、フランス情報部内で起こった実際の事件に基づいて、デイヴィッド・ヘンリー・ホァング David Henry Hwangが執筆した戯曲「M.バタフライ M. Butterfly」の映画化です。原作の戯曲は世界30カ国以上で上演される大ヒットとなり、トニー賞も受賞しました。映像化にあたり、ホァング自ら脚色を行い、エグゼクティブ・プロデューサーにも名を連ねるなど、かなり力の入った企画であったようです。

では、内容をみてみましょう。

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「M.バタフライ M. Butterfly」(1993年製作)
監督:デイヴィッド・クローネンバーグ David Cronenberg
原作:デイヴィッド・ヘンリー・ホァング「M.バタフライ」
脚色:デイヴィッド・ヘンリー・ホァング
撮影:ピーター・シャシスキー
音楽:ハワード・ショア
出演:ジェレミー・アイアンズ、ジョン・ローン、バーバラ・スコヴァ、イアン・リチャードソン他。

1964年、北京。ルネ・ガリマールは、妻と共に新しく北京のフランス大使館に赴任する。彼の主な仕事は経理面の管理だ。実はフランス大使館では、本国から遠く離れた任地であるのをいいことに、情報部員による横領がはびこっていたのである。
ある夜会で、オペラ「蝶々夫人」が上演された。主役のバタフライを演じたソン・リリンを一目見たとき、ガリマールは運命を感じた。ソンは京劇の女優であり、もとはといえば日本の女性を主人公にした「蝶々夫人」に対して辛らつな意見をもっていた。白人であるガリマールに対しても、臆することなく「蝶々夫人」における欧米の帝国主義的思想を批判してみせた。
ソンの毅然とした態度にひかれ、彼女の出演する京劇の舞台を街中まで観にいくガリマール。未知なる「東洋的美」の具現化であるソンに、ガリマールはたちまち夢中になっていく。ところが仕事に没頭するうち、ソンの家から足が遠のいてしまった。まじめな勤務態度が認められ、彼は一介の経理担当から副総領事に抜擢され、なんとフランス情報部を統括する権限をも与えられたのだ。
疎遠になってる間にソンからは熱烈な恋文が届いていた。胸を躍らせつつ、ガリマールは自分が出世したことをソンに告げ、二人は初めてベッドを共にする。
蜜月は続く。ガリマールはソンから東洋の思想や文化を学び、ソンはガリマールから西洋の社会を学んだ。二人は全く異なる生活環境から互いに歩み寄り、愛情をも深めていった。
ところが、ソンは本当は男性であった。芸術家や知識階層を排斥する毛沢東率いる共産党から罪を見逃してもらう代わりに、女装して政府側のスパイとして働くことを強制されていたのであった。そんなことは夢にも知らず、ガリマールはソンにフランス側の機密情報を洩らしてしまう。
ソンはガリマールから得た情報を同志(共産党員)に報告しながらも、一人きりのときも女装をやめることができなかった。ガリマールが望む慎み深い理想の東洋女性を演じながら、いつしかソン自身も彼を愛し始めていたのである。
ガリマールもソンの影響で、考え方が東洋諸国を擁護する方向に傾きつつあった。情報部の仕事上でも、帝国主義的なやり方に反対するようになったのだ。
ある日酔っ払ったガリマールはソンに裸になるよう命じる。一度も裸を見たことがないのだから、と。私はあなたの奴隷だと言いつつ、正体がばれないよう、ソンは妊娠したと嘘をつく。出産するまで里に帰ると言い置き、ガリマールの前から姿を消したソン。
ソンは同志に手配を頼んだ混血の子供を抱えて、再びガリマールと会う。ガリマールは妻も家庭も捨てていた。一緒にパリに行くようソンに懇願するが、当時は排他主義の近衛兵がにらみを利かせていた時代でもあり、ソンは彼らに連れ去られてしまう。
そしてガリマールは、欧米列強との外交における一連の状況判断のミスの責任を問われた。結局副総領事の職を解任され、失意とともに中国を去ることになったのである。
1968年、パリでわびしく1人暮らしをしていたガリマールの元に、ソンが一人で訪ねてきた。子供を当局に奪われたというソンの涙を信じ、ソンのために重要な機密文書を極秘に運ぶ配達員を始めたガリマール。
ある日、とうとうそれが露見し、スパイ容疑でガリマールは逮捕されてしまう。裁判が行われた。証言台に立ったのは、女装を解き、本来の男性の姿に戻ったソンだった。その姿を見たガリマールは驚愕する。ソンは冷ややかに、ガリマールとのことの次第を証言し、結局ガリマールは機密文書の重要性を知りえたという判断が下され、重い罪を問われた。
刑務所へ護送される間、ソンとガリマールは言葉を交わす。ソンは全裸になって彼に向き直り、幻のバタフライではなく本来の自分を愛して欲しいと訴える。しかしガリマールは、「私が愛したのは幻のお前だ」と告げ、永遠に心を閉ざす。ソンは当局の手によって中国へ送り返されていった。
ガリマールは刑務所で精神を病んでいった。女性用の化粧道具一式を揃え、ある日刑務所内の囚人相手に一人芝居を始める。独白しつつ鏡を手に取り、顔をおしろいで真っ白に塗りたくり、目の周囲だけを京劇の役者のように真っ赤に塗っていくガリマール。彼は夢心地で独白を繰り返す。

「私には東洋のイメージがある。確固とした…。それは男からどんな仕打ちを受けても愛の力で耐え抜く、美しい女性のイメージだ。私はルネ・ガリマール。またの名をマダム・バタフライだ…。」

囚人たちの拍手を聞いて涙を流しながら、ガリマールは手に持った鏡で自らののどをかき切り、果てていった。

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結局ガリマールは、ソンを導き手として東洋的愛の形に触れたと思い込んでいたのですね。東洋の女は辛抱強く、男に隷属し続けるのだとか、女はひたすら慎み深くあるのだ、など。ガリマールはソンと愛し合ううち、ソンのみせる幻の東洋的美、東洋的愛に気づかぬうちに深く侵食されてしまっていたのでした。観客からみれば、そんな「恥を知るぐらいなら自害して果てるべし」などという考え方は、非常にゆがんだ思想なわけですが。でも西洋の世界からやってきて、なにもかもが異質の文化を目の当たりにした際、彼のような人間が一種特殊な東洋的思想に飲み込まれてしまうのは致し方ないかもしれません。

ガリマールは当初「蝶々夫人」のピンカートンの役割を担おうと、ソンをその境遇から救い出そうとしますが、それを逆手にとられ、いいように操られてしまいます。ソンと自分の関係を「蝶々夫人」の悲劇の恋人たちになぞらえて、酔っているガリマールには、もう真実は見えなかったのではないでしょうか。
たとえ、いくら東洋女性が慎み深いからといって、ベッドを共にするときですら生身の裸体を晒さないのは変だと思ったとしても。服の上から体に触れた感触が女性のものとは明らかに違うと、頭の片隅で感じていたとしても。
中国から遠く離れた頃には、もうガリマールの心には彼なりの確固とした東洋の愛のあり方、思想が深く根付いていたものと思われます。
裁判でソンが男でしかも自分を利用したスパイだとわかっても、それは揺らがない。ソンはガリマールにとって、「東洋」を理解する上での触媒でしかなかったのです。ですから、ソンから本当の自分を見てほしいと頼まれても拒絶しました。
ソンの幻に頼らずとも、投獄後は自らが「東洋」を体現すべく女装して、「蝶々夫人」の東洋を象徴する場面、ラストの自害を演じてみせたのです。ガリマールは最終的に「東洋」と一体化したいと願ったのでしょう。それがどんなにいびつで間違った思想だとしても、それが唯一信じた愛の形だったから。そのためには、自分もバタフライとなって絶対的な「愛」に殉じなければならない。ガリマールは絶望から死を選んだのではなく、自ら作り上げた愛を全うし、真に「東洋」と一体化するべく果てていったのです。
劇中、印象的なシーンがありました。北京在中時に、近衛兵の排斥運動の行進に呑まれそうになったガリマールの姿。時代が下って、パリでコミュニズムに心酔する若者たちのデモ行進に飲み込まれそうになるガリマールの姿。彼が後に己の“東洋”に身を捧げるようになることを暗示するかのようなシーンでしたね。同時に、西洋と東洋は真実、交じり合うことは不可能かもしれないことをも暗に示していました。

クローネンバーグは、己の生み出した幻の“思想と愛”と心中する男に共感を抱いて、メガホンをとったのでしょう。その意味において、ガリマールは一連のクローネンバーグ作品の主人公たちと共通するのですね。
そして、ある意味幻のファム・ファタールに人生を狂わされ、やがて嬉々として転落していく哀れな男をアイアンズが鬼気迫る演技でみせています。実は、彼の中でこの作品がどのような位置づけにあるのか、私としては非常に知りたいところなのですね。いくつもの作品の中で、原因は異なれど、静かに、しかし確実に自滅していく男を演じて、格別に光り輝いてきたアイアンズ。当初は西洋の帝国主義でもってソンを支配していたはずのガリマールが、やがてはソンに支配され、彼の象徴する“東洋のイメージ”に精神を乗っ取られていくという、西洋人にとっては屈辱的かつアイロニックな役柄を彼がどんな風に認識していたのか、とても知りたい。今となっては叶わぬ夢ですが。この作品の中でのアイアンズも、クライマックスに向けて官能と隣り合わせの死臭を放ち、“滅びの美学”を感じさせます。

この作品への評価が下がった原因のひとつであるジョン・ローンの起用ですが、彼の演技そのものは素晴らしかったと思うのです。男でありながら女を演じ、また、女を演じなければ愛する人から愛を得られないという難しい役どころを、実に繊細に演じきっていました。初めて映画を観たときには、やはり彼の男性らしい骨格と顔のつくりが、女装にあっていないことが気になってしまったのですが。
今回観返したらば、やはり厚化粧や体をすっぽり覆う衣装をもってしても、観客をだますことはできないなあと改めて思ったのですが、どうでしょうね。実際のソンは、本当にだまされてしまうほど妖しく美しい人だったのでしょうか。
映画が公開されたとき、ある週刊誌に、実際のガリマールとソンが裁判を受けている写真が掲載されていました。私もそれを見た覚えがあります。もっさりしたガリマールと、女装を解いた普通の背広姿の男が二人並んでいる姿は、正直滑稽ですらありましたね。

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でも映画は観客の目に耐えうるものでなければいけない。「ヴェニスに死す Death in Venice」のビヨルン・アンドレセン、「クライング・ゲーム The Crying Game」のジェイ・デイヴィッドソンの発見は、その意味でおそらく奇跡に近いものだったでしょう。彼らには主人公の男も惑わされましたが、観客である私たちも大いに惑わされ、ストーリーに説得力を持たせることに成功しました。残念ながらジョン・ローンには、この特殊なラブストーリーを観客に納得させるだけのビジュアルが足らなかったと言わざるを得ません。キャスティングの段階で、ソン役には当初故レスリー・チャンが候補に挙がっていたと聞きます。「覇王別姫」とかぶるような役柄なので彼にはオファーを断られたそうですが、もし、レスリーがソンを演じていたとしたら…。この作品には、また違った評価が与えられたかもしれません。

でもね、今作を馬鹿馬鹿しいの一言で片付ける皆さんには、ちょっと考えて欲しいことがあるんですよ。この映画は、冒頭に“実話に基づいている”と挿入されますし、国際的によく知られた顔であるジョン・ローンにあえて女装させてもいます。前述した「ヴェニスに死す」や「クライング・ゲーム」のように、両性具有的ルックスを持った男たちの美しさだけで観客の三面記事的な興味を煽るようなことは、ハナから考えもしなかったに違いありません。
史実では実際どうだったかはわからないですが、ホァングの書いた戯曲、あるいは今作の脚本では、ひょっとしたらガリマールはソンの正体について薄々感ずるところがあったかもしれないとも解釈できます。そしてソンの方も、ガリマールに勘付かれていると察知していた可能性も。つまり、両者共に相手に対し、西洋と東洋のそれぞれの淡い幻想を見ていることをわかった上で、“蝶々夫人ごっこ”に興じていたかもしれないのです。
もしそうだとするならば、裁判の後護送されていく車中で、ソンがありのままの姿を見て欲しいと懇願しても、ガリマールが現実を直視することを拒絶する意味合いが深刻になってきます。ソンは、ガリマールをスパイ活動に利用するために幻想でもって彼を操っていたのですが、いつしかソン自身も、演じていた虚像の蝶々夫人と同化したのでしょう。本当の自分をガリマールに愛して欲しかった。でも、ガリマールの方はとうの昔に幻想世界と同一化しており、ソンのように現実世界に戻ってくることはできなかったのですね。実際のガリマールとソン同様、アイアンズとローンの並ぶ姿が滑稽に映れば映るほど、やりきれなさもいや増していくのは事実です。人を愛するという行為が、いかにあいまいで脆い感情の上に成り立っているのかを思い知らされるからでしょうか。彼ら2人の育んだ愛情は、全てが演出されたもの。実際にこんな愛のかたちがあったなら、それはなんと不幸で哀しいことでありましょう。

ソンがガリマールの前で初めて自身をさらけ出すシーンを、ぜひもう一度観ていただきたい。このシーンにおけるジョン・ローンは、本当に本当に美しかった。化粧などしていなくとも、瞬時にガリマールだけの“バタフライ”になってしまうその目に宿る熱情と諦念の哀切さ。こんなに胸の痛む愛のシーンを、私は他に知りません。

エム・バタフライ【字幕ワイド版】 [VHS]
ワーナー・ホーム・ビデオ
1995-10-20

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史実の中の“バタフライ”ことShi Pei Pu氏は、2009年、70歳でパリにて死去しました。


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