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zoom RSS 「ニュー・ワールド」―テレンス・マリックと楽園の日々 Terrence Malick

<<   作成日時 : 2014/01/26 18:20   >>

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テレンス・マリック Terrence Malick

1943年11月30日生まれ
アメリカ、イリノイ州オタワ出身

本名テレンス・フレドリック・マリック

子供の頃にイリノイ州からテキサス州オースティンに引越し(現在もオースティンに居住)、オースティンの農場で育った。セント・スティーヴンス高校を卒業後、ハーヴァード大学で哲学を学ぶ前までは農場で働いていたという。ハーヴァード大を卒業した後は、奨学金を得てオックスフォード大学のマグダレン・カレッジに学んでいる。だが、そこで論文を書き上げる前に担当教授と意見の相違を見、アメリカに帰国した。フリーのジャーナリストとして働く傍ら、マサチューセッツ工科大学で哲学を教えるという生活を送る。その間に映画製作に興味を持ち、脚本を書き始めた。脚本家デビューは1969年の『Lanton Mills』。クレジットはされていないが、1971年のジャック・ニコルソンがメガホンを取った未公開作品『Drive, He Said』でも脚色を務めている。実は1971年製作の「ダーティー・ハリー」でもシノプシスを書いていたのだが、完成したフィルムには彼の書いたものはひとつも採用されていなかったという。ヴァーノン・ジマーマン監督の『Deadhead Miles』(1972年)、ポール・ニューマン主演作品「ポケット・マネー」(1972年)に脚本家として関わった後、いよいよ自身で製作も兼ねた監督デビュー作「地獄の逃避行」(ただし国内未公開)を1973年に完成させた。アメリカン・ニュー・シネマの潮流の中でも一際異彩を放つこのロード・ムービーは、後年カルト映画化することになる。この作品を、マリック監督のフィルモグラフィーの中でも最高傑作だと推す声は今だに多い。そして2作目の監督作「天国の日々」(1978年)は、タイム誌によって“70年代のアメリカ映画ベスト10”に選出された。ところがその後、次の監督作「シン・レッド・ライン」を撮るまで実に20年の歳月が経っている。この間彼は映画界から姿を消し、1979年から1994年までフランスで教鞭をとっていた。尤も、全く映画界と縁が切れたわけではなく、1980年に製作された「エレファント・マン」を監督する依頼を受けてもいた。これは彼自身がそのオファーを断っている。また、デニス・クェイドやウィノナ・ライダーが出演した「グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー」(1989年)の草稿を(最終的に採用はされなかったが)書いていた。
「シン・レッド・ライン」を監督するまでには、スティーヴン・ソダーバーグ監督の情熱的な説得があったらしく、この作品で第2次世界大戦における独自の見解を示した。その後、製作や脚本に関わる作品が増えていき、2002年3月テキサス州オースティンにおいてテキサス映画の殿堂入りを果たした。2004年開催のベルリン国際映画祭の回顧展で「地獄の逃避行」が上映されたときには、全くのお忍びでゲストとして登場し、周囲を驚かせたという。映画人としての華やかな世界からは距離を置いているため、彼自身がメディアに露出することはほとんどない。しかし、マーティン・シーン(「地獄の逃避行」主演)などハリウッドでの彼の友人たちは、彼自身はいつも謙虚で心優しい人物であり、メディアに仕事や私生活を詮索されることを好まないだけだと口をそろえて証言している。

●フィルモグラフィー

2015年『Knight of Cups』
2012年『To the Wonder』
2011年「ツリー・オブ・ライフ The Tree of Life」兼脚本
2009年『The Marfa Lights』製作のみ
2007年『The Unforeseen』製作総指揮のみ
2006年『Amazing Grace』製作のみ
2005年「ニュー・ワールド」
2004年「アンダートウ 決死の逃亡」(未)製作のみ
2004年『The Beautiful Country』製作のみ
2002年「ベアーズ・キス」脚本のみ(クレジットなし)
2000年『Xingfu shiguang』製作総指揮のみ
2000年『The Endurance: Shackleton's Legendary Antarctic Expedition』製作総指揮のみ
1999年『Endurance』製作のみ
1998年「シン・レッド・ライン」兼脚色
1978年「天国の日々」兼脚本
1974年『The Gravy Train』脚本のみ(デヴィッド・ホイットニー名義)
1973年「地獄の逃避行」(未)兼製作と脚本
1972年「ポケット・マネー」脚本のみ
1972年『Deadhead Miles』脚本のみ
1971年『Drive, He Said』脚本のみ
1969年『Lanton Mills』脚本のみ

私にとってテレンス・マリックという映画作家のイメージは、とにもかくにも“生真面目なナチュラリスト”の一言に尽きる。まさしくアメリカの原風景ともいえる、テキサス州の黄金色の自然に抱かれるように暮らし、ひたすら自然と人間の関係に想いを馳せる繊細な思索家。彼が「天国の日々」を製作後、表舞台から姿を消してしまったのも、彼の魅力でもある一途な純粋さが結局映画界の虚栄と相容れなかったせいだと勝手に推測している。監督デビュー作「地獄の逃避行 Badlands」と2作目「天国の日々 Days of Heaven」を観れば、彼の生み出すフィルムが、目に見える世界からあるとき乖離して幻想の中に溶け込んでいくような、実に危うい境界線の上に成り立っていることがわかる。
従って、彼の作品は観客の間で好き嫌いがはっきりと分かれる。物語の整合性であるとか、映画ならではの表現、訴えんとするテーマ性などに重きを置くならば、彼の一連の作品は実に散漫で曖昧な…人によっては散文的だと評されても仕方がないだろう。マリック監督は、観客に己の思考を強要しない。彼が編んでいく映像と、そこから伝達される情感の間にはえもいわれぬ余韻が介在し、それが観る者の想像力を刺激すると同時に、“作家の声”を聞き取りにくくするというもどかしさも生むからだ。しかし私自身は、彼が映画という表現形態の中で一体何を追求したいのかは一目瞭然だと感じるし、また、この30年来それは変わっていないとも思う。乱暴に述べるのを許してもらえるならば、“人間にとっての楽園…魂の安息場所…はどこにあるのか”ということだ。

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(映画「天国の日々 Days of Heaven」の1シーン)

母なる自然に抱かれて自然と共に生きていたはずの人間が、その営みを文明という形で気ままに発達させたがゆえに、自然との間に軋轢を引き起こす羽目になった。その帰結として、人間はその身の内に取り返しのつかないひずみを抱えてしまったのである。本来人間は、自然の中で生まれ、子孫を残し、生き、時には殺し、死んでいくもの。人間独自の行動だと思われているものは、実はこれ全て自然の摂理に拠っているに過ぎない。従って、人間が人間らしく生きるためには、結局文明社会を捨てて自然の懐に戻るしかないのではないか…。人間は、生まれながらに精神や肉体に数々の矛盾を抱え(自然を破壊しつつも、当の自然に頼らずには生きられないのが最たる例だ)、その産物たる社会も創造主同様矛盾だらけだ。しかしそれを一歩超越して、純化された魂の安息場所を求めようとすれば、社会を、つまりは人間そのものを否定しなければならない。このジレンマには、人間が人間である限りどうしようもない、堂々巡りにも似た不毛さえ感じる。


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マリック監督は、1958年にネブラスカ州で実際に起こった連続殺人事件(主犯はチャールズ・スタークウェザー)を下敷きに、ニューシネマ時代特有の遁世感、虚無感を乾いた心象風景のフィルムの上に写し取ってみせた。それが「地獄の逃避行 Badlands」である。

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25歳にもなって15歳の少女ホリーに恋をし、交際を反対されたホリーの父親をあっさり殺害したキット。彼はそのままホリーをともない、あてのない逃避行を始める。場当たり的かつ幼稚、単純なる行動様式といい、止むに止まれず次々と殺人を重ねる青年の狂気と、恋人の凶行を恐れることもなく容認してしまう少女のベクトルを間違えたピュアネスは、そのまま現在でも通ずるモチーフである。事件当時のネブラスカ州の荒涼とした自然を余すことなく活写した映像は、その広大に過ぎる土地の中でちっぽけな一点に成り下がらざるをえないキットの焦燥感と孤独を、雄弁に物語る。一見すると印象派の絵画のように美しい自然描写も、その中で鬱屈と殺人を繰り返し、恋人と共に“社会”という名の現実から逃避する2人の空虚な表情と、残酷なまでに対比されている。何者かになろうとしてあがき、結局自滅していく人間にとって、この作品で描かれるアメリカの原風景は、愚かな人間を断罪する冷徹な神の役割を与えられているのだろう。
神が宿る自然は、この哀れな2人を社会に連れ戻す。彼らの犯した罪も、彼らが捕えられていくことも、大自然の中では全て瑣末な出来事でしかない。彼らもある意味ではこの世の楽園を求めて彷徨していたのだろうが、今作では、それは単なる幻であったのだと結論付けられている。

マリック監督の、この“楽園追求”というテーマは、その後の「天国の日々」や「シン・レッド・ライン」「ニュー・ワールド」でも貫かれている。彼なりのピュアネス探索の果てに、これらの作品があったと想像出来るのだ。「シン・レッド・ライン」が男性の考える楽園思想であったのに対して、「ニュー・ワールド」は女性の希求する楽園思想だという違いはあるにせよ。また、処女作でも顕著であった、登場人物によるモノローグの連続(「地獄の逃避行」では「コンチキ号漂流記」の朗読)やロングショットの多用、繊細でありながら緻密に計算された自然描写の構図(光と影の配置も絵画的だ)、その心の内をあえて分析しようとはしない、登場人物とは距離を置いた視線等も、すべての作品に継承されている。彼にとって、自然の姿をフィルムに写し取るという行為は、すなわち、彼が描こうとする人間をも写し取ることに他ならない。そんな自然と人間との密接な関連性こそ、彼のフィルモグラフィーの根幹を成しているといえるのだ。
「地獄の逃避行」から「ニュー・ワールド」までの4作を俯瞰すると、“自然と人間の一体化”という実現不可能な夢を追いつつ既に諦観の域に達してしまったような、マリック監督自身の心模様の変遷も伺える。しかしここに至って、彼の考えがまた微妙に変化しつつあるのではないだろうか。初期の作品では、内包されるテーマへの答えを観客の判断に委ねている部分が大きかったのだが、「ニュー・ワールド」では、彼自身が導き出した答えを自発的に明らかにしているように感じられてならない。
「ニュー・ワールド」は、“アメリカ”誕生にまつわる有名な逸話を下敷きに、その伝説の主人公たるポカホンタスと、彼女を愛した2人の男性の関係を独自の解釈で紐解いてみせた作品である。
前半では、新大陸に辿り着いた入植者の1人スミスの目線で物語が語られる。そう、彼が見た先住民の世界と文明社会との対比を描きつつ、ポカホンタスという純真無垢な魂に“ありのままの自然”を投影させているのだ。劇中、ポカホンタスは自然の中に息づく聖霊(彼女の亡き母親の魂)と、声なき対話を繰り返す。己の魂にとって、一体何が幸福であるのか、と。スミスが、自身の属する世界からの逃避願望を、先住民の形成する楽園への憧れに摩り替えているのと同様、ポカホンタスもまた、自身が囚われている古き因習世界からの脱却の先にこそ楽園があるのだと信じて疑わなかった。スミスにとっての“新世界”が、ポカホンタスの中にある無垢な魂だったとしたら、彼女にとっての“新世界”は、スミスという謎めいた異邦人の姿を借りて突如現出したことになる。スミスとポカホンタスの恋愛感情とは、お互いがお互いの中に見果てぬ“楽園”を見出そうとしている点においてのみ、交錯しうるものなのだ。その愛の矢じりの先端が、決して同じ方向を向いていたわけではない部分に、彼らの恋の悲劇と甘美さが見て取れるだろう。

“魅力あるもの、キレイな花に心を惹かれるのは、誰でもできる。だけど、色あせたものを捨てないのは努力がいる。色のあせるとき、本当の愛情が生まれる”―遠藤周作
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結局彼らの愛情は、すれ違ったままフェイドアウトしていく。どんなに強く望もうと、自然と人間が決して一体化できないように、穢れた文明社会から逃れられないスミスと穢れを知らぬポカホンタスもまた、溶けて混じりあうことは叶わないのだ。彼らが互いに相手に望むものの本質は、根本からして異なっている。そのことを先に悟ったスミスの方が、ポカホンタスの前から逃げたと解釈するのは、至極尤もなことだとも思える。
浅黒い肌にくっきりとした目鼻立ち、カモシカのようにすらりと伸びた細い肢体。裸足のままの素足は、常に大地のぬくもりを直接享受して軽やかに跳ねる。ポカホンタスの体現するニンフのごとき美しさが、身体を不自然に締め上げるコルセットや肌を覆い尽くしてしまう窮屈な長いドレスで変えられていくのを見るのは、私たちにとっても胸痛む光景だ。しかし、スミスという心の拠り所を失って絶望しても尚、彼女は神々しいまでに美しい。“無垢”が挫折によって傷ついたとしても、彼女の魂の奥深い部分までが壊れてしまったわけではないからだ。

“愛情には一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ”―スタンダール
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かつて妻子を失った悲劇に直面したロルフは、純粋にポカホンタスの中に己と同じものを発見する。それは、スミスのように、ありもしない幻影を彼女の中に求めるといったエゴではなく、“喪失”というごく普遍的な感情である。ロルフは、入植地にタバコ農園を築こうと地道に働くごく普通の男だ。楽園を求める理想家でもなければ夢想家でもない。スミスの対極にあるような男だからこそ、しかしポカホンタスという人間の真の姿―本人にも気づき得なかったような―を見ることができたともいえる。そして、実にロルフらしい控えめで忍耐強い、それでいて熱い愛情を奥に秘めた誠実さでもって彼女を包みこもうとするのだ。彼女からの見返りを一切期待せず、ひたすら彼女の苦痛が和らぐことを祈りつつ、彼女を癒すことこそが自身の幸福だと信じる男の無償の愛情。それは、彼女が自分だけの“楽園”を模索するのを、陰から見守り続ける崇高な行為だろう。

“愛する…それはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである”―サン・テグジュペリ
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ポカホンタスとロルフは、お互いの視線が絡み合うことはほとんどない。つまり、恋する者同士がしばしば行うようなこと―お互いの姿しか見えないかのごとく、熱っぽく見つめ合う―という行為とは縁がないのだ。その代わり、彼らは同じ方向を向いて歩き、同じ方向を見て働く。常に同じ方角に視線を投げながら暮らす。彼らにどれだけの自覚があったかは別として、それこそが、彼らがお互いを愛する土壌がができていたことの証明ではなかったかと思う。また、そんな静かなる魂の共鳴に真の愛情を見出したマリック監督自身も、新たな境地に立ったといえるだろう。人間を突き放してみるだけでなく、彼らと同じ目線で同じ光景を見、彼らの意識に少しでも近づこうとしているのが、登場人物に接近したカメラアングルから感じられる。

“全ての偉大な恋愛のうちには母性愛がある。真の女らしい女たちが男の力を愛するのは、男の弱さを知っているからである”―モロア
やがて母性を体得する女性にとって、真の安息場所というのはすなわち子供、家族のある所なのではないか。自然に回帰することに楽園を求めるのではなく、どんな環境であれ、己の血を分けた家族の中にこそ魂の充足を覚えること。自分の存在意義を確かに感じる場所を見つければ、死ぬことさえ恐れるに足らないのだ。このごく当たり前のようでいて、そのくせなかなか実感できない真理を、今作もさりげなく提示している。今のような世の中にこそ、古き良き時代の“家族の絆”という神話を問い直す必要があるとマリック監督は考えているのかもしれない。
ポカホンタスは、母となり、この真理に到達して初めて夫ロルフの深い愛情に気づいた。そのときには既に彼女の身体は病魔に侵されていたが、“楽園”の意味を知った者に、肉体の死への恐れはない。彼女が息子トマスに遺した言葉―“お前さえ元気でいればそれでいい”―とは、真に充足した者の偽らざる心情だと思う。

“愛は死よりも強く、死の恐怖より強い”―ツルゲーネフ
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ポカホンタスは亡くなったが、遺されたロルフとトマス父子の頭上には、彼女の笑顔を思わせる太陽の日差しがさんさんと降り注ぐ。その魂はいつまでも家族と共にあると信じさせてくれる、美しいシーンであった。楽園はいつも自分の足元にあるのだというメッセージは、きっとマリック監督自身の新しい心境でもあるのだろう。


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